はじめに
辻善之助が明治四十年(一九〇七)に発表した「本地垂迹説の起源について」(1)は、今日では学問的な使命は終えているとされる。しかしこの学説への厳しい批判が行なわれてこなかったために、神仏交渉研究史上の定説(2)という名誉は与えられたままである(3)。辻説への根本的批判は、はやくに津田左右吉によって提起されていた(4)。また近年では、吉田一彦氏(5)が行なっている。即ち、日本の神仏習合思想は日本固有の宗教思想ではなく、中国の仏教思想の輸入であるとの指摘である(6)。
しかし津田左右吉は詳細な論証をしておらず、また吉田一彦氏も神仏習合思想ロジックが中国仏教の習合ロジックに見出されるという点は論じるものの、包括的神仏習合論の再構築には至っていない。
したがって今日までのところ、我が国の神仏習合の全体像を提示しているのは辻説だけであって、辻説に代わる包括的な神仏習合論モデルは未だ提唱されていない。
そこで新たな習合論モデル作成の為には、辻説に対して包括的な批判を加え、辻説の学問的誤りを明確にしておかなければならないと考え、以下の論述を進めることにした。
第一節、辻の図式的要約の論理構造
定説とされている辻の神仏習合説とは、次のようなものである。
神明は仏法を悦ぶ(1) ……神明は仏法を擁護する(2)……神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する(3)……神明は衆生の一つである(4)……神明は仏法によりて悟りを開く(5)……神即ち菩薩となる(6)……神は更に進んで仏となる(7)……神は仏の化現したものである(8)
神が仏となっていく上昇過程を説明するこの八要約は、論理的で明快であり、しかも以下に述べるように、辻が文献史料を用いてこの要約を論証しているために、この要約は史実そのものと考えられ、定説化するに至った。
しかしながら辻説で先ず疑問に思われるのは、思想とは数百年もかけて、このように整然とした単線的発展を遂げるものかという点である。辻の要約に、そうした疑念を感じるのは、この要約に進化論的発達史観を感じ取るからである。
しかし、たとえ発達史観的要約であったにしても、辻の図式的要約が正しいものならば問題はない。だがそうではない。この図式的要約自体に問題があるといえるのである。なぜなら論証に用いられた史実が、この図式的要約に沿うように操作されているからである。つまり辻説は、史実に沿って図式化されているのではなく、図式に都合がいいように史実が当て嵌められているのである。
前述のように、辻の図式的要約は八つで構成されている。そしてこれらの要約は一見すると、第一要約から第二要約が導かれ、第二要約から第三要約が導かれるというように、一つの結論が次の前提となり、その前提から次の結論が導かれるという八段の論証形式をとっているように見える。しかしながら整理すると、実際の論証は、(1)・(3)・(5)・(7)と(2)・(4)・(6)・(8)の二系統に分かれた二重の四段論証になっているである(7)。
(1)神明は仏法を悦ぶ (2)神明は仏法を擁護する
↓ ↓
(3)神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する (4)神明は衆生の一つ
↓ ↓
(5)神明は仏法によりて悟りを開く (6)神即ち菩薩となる
↓ ↓
(7)神は更に進んで仏となる (8)神は仏の化現したもの
しかも(1)悦・(2)擁護という前提から、(3)業苦煩悩・(4)衆生という結論を導くことは出来ず、これらの要約は、前提から結論が導かれる他の項目とは異質である。したがって(1)悦・(2)擁護を除外して、(3)・(4)以降に注目してみると、内容的には問題はあるが、形式的には(3)業苦煩悩→(5)悟り→(7)仏となるが、実はこれは仏教教理における釈迦の解脱への過程そのものである。また、(4)衆生→(6)菩薩→(8)仏となるが、これも釈迦が仏になっていく過程そのものである。つまりどちらも、釈迦が仏となる発展段階の記述になるのである。
さて、この論証の結論は、実に驚くべき結論と思われる。辻に従えば、古代インドに生まれた釈迦一人に起こった宗教的発達が、時も場所も違う千数百年後の日本という国で、しかも日本の多数の神々に起こったということになるのである。果たしてそのようなことが、実際に起こりえるだろうか。
第二節、「神明は仏法を悦ぶ……神明は仏法を擁護する」の史実
「神明は仏法を悦ぶ……神明は仏法を擁護する」という要約の論証に使われている史実は、『続日本紀』文武天皇二年(六九八)の伊勢神宮記事の頭注の「大神宮寺」(当史料は明治四十年発表の辻論文には引用されていない)という記載、或いは「武智麿伝」の気比神宮寺、天平十三年(七四一)宇佐八幡への納経度者造塔、天平勝宝元年(七四九)宇佐八幡の大仏造営賛助上京という史実である。
辻のいう「大神宮寺」とは、伊勢神宮の神宮寺のことである。辻は、『続日本紀』文武天皇十二月乙卯(二十九日)条にある「大神宮」を、辻の時代に出版されていた国史大系『続日本紀』の頭注によって「大神宮寺」とするのが正しいとするのである。しかし今日の新訂増補国史大系『続日本紀』では「大神宮」とだけあり、そうした頭注もなくなっている。この条の「大神宮」を、「大神宮寺」とすることが出来ないことは、田中卓氏(8)の考証からもいえ、「大神宮寺」或いは「太神宮V」とはすることは共に出来ないのである。
伊勢神宮には、天平神護二年(七六六)七月二十三日に使いが遣わされ、丈六の仏像が造られた(9)。しかし宝亀三年(七七二)八月になると、月読神が祟りを為したことによって、度会郡にあった神宮寺を飯高郡瀬山に移したが(10)、それでも神郡(度会郡・多気郡)に近いという理由から、さらに遠くに移転させることになったのである(11)。つまり伊勢神宮では、奈良時代の後期には神郡はいうに及ばず、神郡に隣接する郡からさえ神宮寺が遠ざけられていたのであった。伊勢神宮では、平安時代には忌詞を以て仏に関する詞を言い換えたほどであることからも、天照大神が仏法を悦び仏法を擁護するといった思想が、たとえ奈良時代中期にあったとしても、直後には神祇の中心である伊勢神宮からは、仏の隔離(神宮近辺からの排仏)が始められていたのであった。
「気比神宮寺」のことは、『家伝』「武智麿伝」に記述され、気比神が宿業に苦しみ、仏教に帰依し、神宮寺が建立されたことが記されている。
八幡神には、天平十三年(七四一)に納経・度者が行なわれ、境内に三重塔が造られたれたことは『続日本紀』(12)に記載され、天平勝宝元年(七四九)大仏造営賛助上京も史実として証される(13)。
これらのことからいえば、気比神・八幡神は「神明は仏法を悦ぶ……神明は仏法を擁護する」という要約に合致する神といえる。しかし逆に、これらの史料による限り、こうした思想をもっていた神は、天平時代では気比神と八幡神だけということになる。伊勢神宮を始として、畿内や畿外の大多数の神社の神々には、奈良時代前期に仏教を悦び擁護したということを伝える信憑性ある史料はないのである(14)。
つまり辻が主張する「神明は仏法を悦ぶ……神明は仏法を擁護する」という思想が、奈良時代前期に幅広い思想として日本にあった(15)とはいえないのであり、一部の神々にそうした思想が認められるだけなのである。
第三節、「神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する……神明は衆生の一つである」の史実史料
次に、「神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する……神明は衆生の一つである」という要約であるが、この要約に用いられる史料は、「武智麿伝」・「多度大神宮伽藍縁起資財帳」・「陀我神」(『日本霊異記』下巻 第24)・「和気清麿の神願寺の縁起」(『日本逸史』巻三十二)・「若狭比古神」(『日本逸史』巻三十七)である。
辻は、これらの史料の年代を以下のように比定する。「武智麿伝」は天平宝字(七五七〜七六五)頃の作とし、この時代の思想を表しているとする(17)。また、『多度大神宮伽藍縁起資財帳』は、延暦二十年((八〇一)に書かれたものであるが、天平宝字七年に満願が丈六の弥陀を作ったことが本文にも記されているから、天平宝字年間(七五七〜七六五)に遠くない頃のものとする。「陀我神」(『日本霊異記』)は、この話が宝亀年中(七七〇〜七八一)のことであると文中に記されている。「和気清麿の神願寺の縁起」は、延暦十二年(七九三)以前のこととする。「若狭比古神」も、文中では、この託宣は養老中のこととされているが、天長(八二四〜八三四)に近い頃の思想としている(16)。つまり辻は、「神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する……神明は衆生の一つである」という要約を証するこれらの史料が、奈良時代後期及び安時代初期の思想を示す史料であることを示そうとしているのである。
したがって(1)(2)・(3)(4)の要約は、奈良時代前期の天平時代(七二九〜七四九)から奈良時代後期・平安時代初期頃までの思想展開の図式ともされているのである。
さて、これらの神々は、神身である為に業苦煩悩し、それ故に仏法に帰依したいと告白する神々とされているのであるが、辻はそのことを以って日本の神々が人間と同じ衆生の一つであるとする。この点を検討したい。
辻は、日本の神々が仏教でいう護法善神と考えられたとして、日本の神々を衆生の一人であるという要約を導き出している。では、護法善神とはどのような神なのだろうか。仏教では、世界を地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界・縁覚起界・声聞界・菩薩界・仏界の十界で成り立っているとする。この内、地獄界から天上界までの六界を凡夫の迷いの世界、縁覚界以上の四界を聖者の悟りの世界とする。
諸天善神とは、人間界より一つ上の天上界の神々で、帝釈天・梵天・四天王と同じ界にいる神々である。衆生界とは、仏界以外の九界を総称する意味もあるが、辻は人間界の意味で用いていると思われる。何故なら、朝廷が日本の神々に階位を奉っているが、これは神を人間と同じと見ているためと述べているからである。
當時の思想によって神を考ふれば、直ちに了解できる。即神は人間と同じく、迷界の中にあり、衆生の一であるとみれば、人間に位階ある如く、神にも位階があって然るべきことである。」(『日本仏教史の研究』七六頁、『日本仏教史』第一巻では、この文章は削除されている)
つまり辻は、日本の神々が人に与えられると同じ階位を与えられるような存在なのであるから、人間の一人という意味での「衆生の一つ」であると結論しているといえるのである。
ところが気比神・多度神などは、優婆塞を高木の上に置く、或いは災害を起こすほどの力を持つといった神々である。八幡神も三韓を制圧した威力ある神である。ということは、奈良時代後期・平安時代初期では、辻のように、これらの神々は非力な人間である衆生の一つと考えられていたとすることは出来ない。つまり、日本の神々を人間と同じ衆生の一人とする辻の要約は成り立たないのである。
日本の神々は、衆生の人間を遥かに超えた力を持った、仏教でいう天上界の神々に相当しているのである。それ故、日本の神々は天上界の四天王と同じように、仏法を擁護することができるのであり、仏法を護る日本の神々というのは、こういう位置づけならば理解されるのである。
したがって、「神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する」という要約は誤りではないが、「神明は衆生の一つである」という辻の要約は誤りである。繰り返すが、日本の神々は、衆生の一人と見られたのではない。辻も最初は護法善神として規定しているのであるから、理屈からすれば日本の神々を「衆生」と断ずることはできないはずである。それにも拘わらず、辻が日本の神々を「衆生の一人」と断じたのは何故なのか。そこに、日本の神々を仏より遙かに低い存在に位置付けようとする辻の意図を感じないわけにはいかないのである。
以上の考察からすると、奈良時代後期に「神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する……神明は衆生の一つである」という思想が、一般的な思想としてあったということは成り立たないのである。
第四節、「神明は仏法によりて悟りを開く……神即ち菩薩となる」の検証
次には、「神明は仏法によりて悟りを開く……神即ち菩薩となる」という要約であるが、辻のこの要約は、主として八幡神に向けられたものである。しかし八幡神を含めて、平安時代初期の史料に、悟りを開いて菩薩になったと語られた神々は一神もいないのである。八幡神が悟りを開いたと託宣したという記録もない。多度神もそうである。
承和十一年(八四四)の解文とされ、八幡神の最も古い縁起とされる『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』(18)には、八幡神は、延暦二年(七八三)(19)に衆生を済度するために菩薩を号したとされるのみで、悟りを開いたといった言説は全くない。また、八幡神が悟りを開くために仏法に帰依するといった言説も全然伝えられていない。
八幡神は衆生を済度する菩薩であると自ら宣言したのであり、そこに辻のような悟りを開くに至る八幡神の内面的発達が語られているわけではないのである。
八幡神と仏教との関係は、神宮寺である弥勒寺の前身であった弥勒禅院の建立が、八幡神が小椋山へ鎮座する神亀二年(七二五)と同時と伝えられていることから(19)、早い時期から神仏一体の関係にあったといえる。
そうした仏教と深い関係があった八幡神は、延暦二年(七八三)(20)に突如菩薩を号したとされているだけなのである。ただし、『日本三代実録』貞観三年(八六一)の正月二一日条に「然則使 三八幡大菩薩、別得二解脱一、令二諸餘名神々力自在一」との記事がある。これは東大寺大仏の修理完成に当たっての記事であるが、これからすれば八幡神は、九世紀半ばに菩薩地から仏地に達したとされたことになる。しかしながら八幡菩薩を解脱させて仏地に達せしむとしたのであって、衆生たる八幡神が悟りを開いて菩薩になったとされたではないのである。
以上の考察からすれば、八幡神が悟りを開いた故に、衆生から菩薩になったとの史実はないのであり、あるのは奈良時代後期に多度神が菩薩を称した、或いは平安時代初期の八幡神が菩薩を称した、そして仏地に達せられたという思想があっただけである。
第五節「神は更に進んで仏となる……神は仏の化現したものである」
辻は、本地垂迹説発生の理由を次のように述べている。
さてこの神が佛の化現なりとする思想は、如何にして起つたかといふに、予輩の考ふる所では、之はさきに神に向かって菩薩號をつけたる思想の、更に一転したものであろうと思ふ。前の時代では、神明は衆生の一であるが故に、佛法の力によりて悟りを開いて進んで菩薩地に至るといふ考えであつた。しかるに今度はそれが一歩を進めて、菩薩より佛にまで至るやうになつたのである。是に於て神明は即佛であり、神佛は元同體であるのであるが、ただ権りに化して神として現れて居る。かういふ考えから本地垂迹の説が起つたものであろうと思ふ。(『日本仏教史の研究』一六四頁、『日本仏教史』第一巻四二六頁)
この辻の論述が成立するためには、神は菩薩であっては仏と同体になれず、神が菩薩から仏にならなければ、神仏は同體とされないという前提が必要となるものであろう。しかしながら本地垂迹説が成立したとされる十世紀以降でも、神々に観音菩薩・勢至菩薩・龍樹菩薩といった本地仏(21)が説かれているのである。それからすれば、神が菩薩から仏に進んだ故に本地垂迹説が発生したとはいえないことになる。また、辻の本地垂迹論に従えば、菩薩位では仏の垂迹神にはなれないことになるのであるが、菩薩を号したまま本地仏が定められ、いわんや菩薩さえ号していない多数の神々にも本地が定められたのであるが、そうした神々が悟りを開いたとか、解脱したとも説かれているわけではないのである。
更に八幡神に菩薩号をつけた理由も、「前の時代の思想では、神明は衆生の一であるが故に、佛法の力によりて悟りを開いて進んで菩薩地に至るといふ考であつた」というのは、辻が説いているだけで、そうした言説が記された文献史料があるわけではないのである。
八幡神の本地が、十二世紀初期の堀河天皇の康和頃に阿弥陀と比定されたからといっても(22)、以後も八幡神が菩薩という号を称していて、八幡如来と号したのでもないのである。
辻の理論に沿うならば、寧ろ本地垂迹説が発生する十世紀にこそ、八幡神の本地仏が阿弥陀とか釈迦と説かれていなければならないであろう。
辻の本地垂迹論によれば、本地仏が説かれる資格があるのは、唯一解脱させられた八幡神だけなのであるから、他の神々にはその資格がないということになるであろう。
しかし八幡神以外の多数の神々にも本地垂迹説が説かれたのである。つまり、神々が菩薩から仏になった故に本地垂迹説が説き起こされたという辻説は史実に合っていないのである。
第六節 辻説の根本的誤り
さて、これまでの検討によって、辻の神仏習合史の要約が、幾つもの史実の誤った認識を基に構築されており、史実に則ったものでないことが明らかになってきたと思われる。辻は、一部の史実を全体の史実に拡大したり、別々の史実を繋ぎ合わせたりという史料操作を行なって、仏教教理の鋳型に沿った日本の神々の歴史を作り上げたのである。辻の八つの要約で、史実といえるものを朱色にしてみると次のようになる。
神明は仏法を悦ぶ……神明は仏法を擁護する……神明は仏法によりて業苦煩悩を脱する……神明は衆生の一つである……神明は仏法によりて悟りを開く……神即ち菩薩となる……神は更に進んで仏となる……神は仏の化現したものである
朱色でない要約は史実の裏付けがないのであり、こうした要約は、実は辻の思考の産物に過ぎないのである。そして史実の裏付けの無い要約三つを繋ぐと「神明は衆生の一つである……神明は仏法によりて悟りを開く……神は更に進んで仏となる」となり、これは正に辻の神仏習合論の骨格そのものである。つまり史実の裏付けの無い要約が、実は辻説を支えていることになるのである。更に、史実の裏付けの無いこれらの要約の最終要約の発達として本地垂迹説の成立が説かれているのである。
辻が、神仏同体論である本地垂迹説が説かれるためには、日本の神々が仏になるほどに宗教的(仏教的)発達を遂げていなければならないと考えていたことは、次の辻の文に如実に表われている。
神はまだ悟りの開けぬ解脱せざる衆生である。之が進んで悟りを開けば、菩薩となる。それがもう一つ進めば佛となる。是に於て神佛は始めて同體となる。奈良時代の思想では、神はまだ衆生であって、菩薩にもなって居らぬ。故に神仏同體などゝいふ説は勿論存在し得ないのである。右の如き思想によって、遂に神に菩薩號をつけたり、また神の爲めに神前の讀経するようになるのである。」(『日本仏教史之研究』七七頁、『日本仏教史』第一巻四四四頁)
この辻の論であるが、よく読んでみれば、これほど日本の神々を見下した文は他にないのではないかと思われる。神仏同体となるには、神々が解脱しなければならないとしたのは辻善之助に始まったことであって、それ以前に辻の説いたようなことをいった者はいないのである。

[注]
(1) 辻善之助は、明治四十年(一九〇七)に「本地垂迹説の起源について」(『史学雑誌』十八編の一、四、五、八、九、十二号掲載)を発表した。
(14) (5) 吉田一彦氏論文によれば、大神神社の「大神寺」は宝亀元年(七七〇)以前であり(『日本高僧伝要文抄』所引く『延暦僧録』の浄三伝)、また満願による鹿島神宮寺の建立も天平勝宝年中(七四九〜七五六)のこととされるが(『類聚三代格』巻三天安三年(八五九)二月十六日太政官符)、これらを確実な伝承とするのは問題があるように思われる。
(16) 『日本仏教史の研究』58頁。
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