研究編2 揖夜神社と黄泉比良坂         

揖夜神社(いやじんじゃ)黄泉比良坂(よもつひらさか)
   −
斎明天皇紀五年条をめぐって−  









(猪目湾と猪目洞窟、古くは洞窟前面が崩壊した土砂で埋まっていて上部に小さな口が開いているだけだった。その入り口から洞窟奥にいたる30メートルほどの斜面が黄泉比良坂といわれていた)

 はじめに
平成十二年に出雲大社境内から金輪で束ねられていたと考えられる直系3mを越す巨大な柱が出土したことから、これまで疑問視される向きもあった古代出雲大社が東大寺大仏殿より高い建物で、地上まで長さ一町もの橋で結ばれた高層神殿であったことの信憑性が高まった。尤も今回発掘された遺構は鎌倉時代のものである可能性が高いとされ、この遺構が古代の社殿そのものに直結しているわけではない。
 しかし巨大柱の遺構から、鎌倉時代に高層な建物であったことが予想され、高層であることは、本殿が東大寺大仏殿よりも高いとが記された『口遊』が作られた平安時代には、既にそうであったことを示している。

 こうした論議から、ではいったい何時の時期から出雲大社の社殿がそのように高層に造られるようになったのかという問題が提起されている(1)。

 そこで古代出雲大社が、そのような高層神殿を以て造営された時期を示すとして、『日本書紀』斉明天皇紀五年条「命出雲国造。修厳神之宮」の記事が再び注目されることになった。

 しかしながらこの記事の解釈の上で問題となるのは、「神之宮」が出雲郡の出雲大社のことなのか、古代では出雲国第一の社格を持っていた意宇郡の熊野大社のことなのかという、最も基本的な点で見解が分かれていることにある(2)。また出雲大社・熊野大社のどちらであったにしても、斎明天皇は何故そのような巨大な神殿を以て祭らねばならなかったのか、その理由も判然としない。そこで当論文では、この二点に議論を絞って考察を加えたい。

  (1)、『日本書紀』斎明天皇紀五年条の問題点

 問題となっている斎明天皇紀五年条の記述は、次のようなものである。

是歳。命出雲国造。闕名。修厳神之宮。狐噛断於友郡役丁所執葛末 而去。又狗噛置死人手臂於言屋社 。言屋此云伊浮瑯。天子崩兆
                                          

  前述したように、「神之宮」を意宇郡の熊野大社とする説と、出雲郡の出雲大社とする説があり、旧来は出雲大社とするのが当然のように考えられていた。しかし井上光貞氏(3)や上田正昭氏(4)が熊野大社説を提唱されたことから、今日ではこの熊野大社説も有力な説になっている。

 井上氏は、「於友郡は意宇郡に他ならず、言屋社は神名帳の意宇郡揖夜神社であり意宇郡の神社に他ならず、言屋社をキヅキと関連せしめる理由は一つも存しないのである」として熊野大社説を提唱された。この井上氏の論断には、井上氏の出雲国造成立史論が基礎となっている。
 井上氏によれば、オウ(意宇郡)勢力がキヅキ(出雲郡)勢力を制圧したとし、意宇郡を根拠地とする出雲国造が出雲郡を制圧して出雲大社の祭祀権を握ったと推定する。また熊野大社には出雲国造継承儀礼である火継神事が存在することから、出雲国造は熊野大神を祖先としていたと推定し、意宇郡を出雲国造の根拠地として重視するのである。 一方、上田氏は、大宝令の注釈書の『古記』には、出雲大社は国つ神(地祇)とされているのに対して、熊野大社は天つ神(高天原系)とされ、熊野神は意宇郡を根拠とする出雲国造が祭る神とされていることから、出雲国造に命じての「神之宮」の修厳は熊野大社を指すとされている。加えて「神之宮」の修厳の文に続いて、於友(意宇)郡の役丁が執る所の葛が噛み断たれたことや、(いぬ)が死人の(ただ)(むき)を意宇郡の言屋社に置いたことが記されるのは、この修厳が熊野大社であることを明らかに示しているとされる。このように上田氏は、言屋社が意宇郡に存在したことは、「神之宮」が熊野大社であることの傍証とされるのである。

  狐と狗の内、狐が於友(意宇)郡の役丁が執る所の葛を噛み断った点に関しては、出雲大社説(5)の側から、出雲郡の出雲大社の修厳に意宇郡の役丁が動員されたことは、朝廷が出雲国造に命じての修造なのであるから、出雲郡以外の意宇郡の役丁が徴集されても自然のことで、何ら不思議でないとの反論が出されている。

 さて、「言屋社」に狗が死人の腕を食い置いたことが、なぜ天子(斎明天皇)の崩御の兆しとして考えられるに至ったのか。また、これらの記述が何故「神之宮」の修厳記事に連続して記されるのかについて、上田氏は次ぎのように述べている。

この言屋の社あたりが黄泉の国の入口にあったとされる黄泉比良坂の地であり、『古事記が「今、出雲国の伊賦夜坂という」としたところであった。死の観念と言屋社が結びつくのも、こうした黄泉の国観と関係がある。だからこそ『日本書紀』の編纂者らは、この条に注記して「天子の(かんあがり)ります(きざし) なり」とのべ、斉明女帝急死の前提であったかのように解釈したのであろう

 上田氏は、言屋社が黄泉の国の入口にあたる地として考えられていたとして、日本書紀編纂者がこの事件を記したのは、狗が死人の手臂を言屋社に置いたことを斉明天皇崩御の前提として考えたからではないかとされ、黄泉国観との関係に注目している。

だが、上田氏は黄泉国観との関係を指摘しながら、何故これを大国主神との関連に於いて考察しなかったのだろうか。記紀神話では、出雲の熊野大神と黄泉国には何の関係も見出せないが、出雲大社に鎮まる大国主大神と黄泉国とは実に深淵な関係を持っているからである。

 死人の腕が置かれたのが何故揖夜神社だったのか。揖夜神社に死人の腕が置かれたことは「神之宮」の修厳になぜ関係しているのか。何故、意宇郡の役丁が執る葛だけが噛み切られたのか。

 実は、出雲国造・「神之宮」の修厳・意宇郡役丁の執る葛の噛い断ち・揖夜神社に置かれた死人の手臂・斉明天皇の崩御という事象には、大国主大神が深く関わっているとする深刻な信仰を見出すことができるのである。そこで先ず揖夜神社から考察を始めることにしたい。

   (2)、揖夜神社と『古事記』黄泉比良坂
 さて、揖夜神社の社名である「揖夜」とは一般的に古代神社の社名がそうであるように、地名から採られた神社名と考えられる。

  揖夜神社は、現在の島根県東出雲町揖夜字宮山に鎮座する式内社である。中世以来、所謂意宇六社に数えられ、『延喜式』には「揖夜神社」、天平五年(七三三)勘造の『出雲国風土記』には意宇郡内「伊布夜社」として記される。

 揖夜神社の鎮座する地である「揖夜」という地名は、次に述べるように、『古事記』の伊邪那岐命が黄泉国から現世に逃げ帰る黄泉比良坂段に登場する。

 即ち、黄泉の国から現世に逃げ帰る伊邪那岐命と伊邪那美命は、現世との境をなす黄泉比良坂で対峙して、互いに絶妻・絶夫の誓いを言い渡す。そして、それは「是以、一日必千人死、一日必千五百人生也」という宿命を現世にもたらし、これが現世に神が定めた掟となったのだった。

 この現世と黄泉国の境をなした黄泉比良坂を、『古事記』は次のように記している。

  故、其所  レ謂黄泉比良坂者、今謂 二出雲国之伊賦夜坂 一也

  黄泉比良坂は「今の出雲国の伊賦夜坂なり」としているが、ここに「出雲国」と国名を以て記していることは、この記述は少なくとも国郡制が敷かれた大化時代以降ことであることになろうし、更にいえば『古事記』が編纂された当時としての「今」と云えるのではないだろうか。つまり、『古事記』が編纂された奈良時代初期を背景に記された注記と思われる。

 本居宣長(6)を始めとして現代の研究者まで、この「伊賦夜坂」の地名を、『出雲国風土記』意宇郡に記載される「伊布夜社」、或は『日本書紀』斎明天皇五年条の「言屋社」の鎮座地に比定している。

  今日の地形に於いても、揖夜神社は東の安来方面から来ると、なだらかな丘陵を越えて出雲国府が置かれた意宇平野へ入る謂わばその入口に位置する場所に鎮座している(揖夜神社から出雲国府跡までは平野で、道は平坦である)(7)。

  今日の揖夜神社が、この丘陵を大きく離れて移動したという伝承もないことからすれば、伊賦夜坂=黄泉比良坂は、この丘陵を越えて揖夜神社の近くを通っていた坂道ではなかったかと思われる(8)。

  こういう地理的環境からすれば、揖夜神社は道祖神的な神としても存在したと考えられる。しかし『古事記』の世界で云えば、揖夜神社は普通の境界神ではなく、大和国家の神話的・宗教的世界観に於ける死後世界としての黄泉国へ至るその入口にある道祖神となるのである。

 つまり中央大和朝廷の世界では、現実世界に存在する具体的な死後世界への入口として、黄泉比良坂を伊賦夜坂に比定していたと考えられる。しかしながら出雲国に於いて、黄泉国への入口とされていたのは意宇郡ではなく、出雲郡宇賀郷(現平田市)北の海浜の西方の窟戸なのである。

即、北海浜有  レ礒。名 二脳礒 一。高一丈許。上生  レ松。芸至  レ礒。里人之朝夕如 二往来 一。又木枝人之如 二攀引 一。自 レ礒西方有 二窟戸 一。高広各六尺許。窟内有  レ穴。人不  レ得  レ入。不  レ知 二深浅 一也。夢至 二此礒窟之辺 一者必死。故俗人。自 レ古至  レ今。号 二黄泉之坂・黄泉穴 一也                   

                                             (『出雲国風土記』出雲郡条)

  「 (なづきの)(いそ) 」は日本海に面した海岸にある岩塊であり、付近には弥生時代・古墳時代の人骨が実際に発見された猪目洞窟があり、今日では『風土記』に云う黄泉之坂・黄泉穴を、この猪目洞窟に比定する説が有力である(9)。

しかし重要と思われるのは、この猪目洞窟の裏側にあたる南西五キロの位置に出雲大社があることである。古代では出雲大社の南には巨大な神戸水海が広がり、そこには西流してきた斐伊川が流れ込んでいる状態で、築杵郷の出雲大社や宇賀郷の「脳礒」地域一帯は、出雲国でも最も北西の奥まった地域といえるのである。後述するように、このような地に出雲大社が存在すること自体に非常に重要な意味があったと考えられる。

 出雲国に於けるこうした黄泉之坂・黄泉穴の実際の存在故に、『古事記』をして、出雲国を代表する郡である意宇郡の中心部にある意宇平野に入る最後の境界丘陵にあった伊賦夜坂を黄泉比良坂として描かせたのではないかと思われる。

  したがって、このような伊賦夜坂=黄泉比良坂のあった土地の揖夜神社に死者の手臂が置かれていたということは、「斉明女帝急死の前提であったかのように解釈したのであろう」と云う以上に、黄泉国からの何らかの意思を表示した事象として日本書紀の編纂者が理解した為に採録したと解するべきではないかと思われる。

  では、黄泉国の何者が斉明天皇へそのような伝言を送ったのだろうか。そして其は何故だったのだろうか。

  (3)、斉明天皇の特異性
  斉明天皇は斉明七年(六六一)七月に筑紫の朝倉宮で崩御されるが、その時の年齢は皇胤紹運録や水鏡では六十八歳、帝王編年記では六十一歳とされている。崩御は出雲国造に「神之宮」の修厳を命じた斉明五年から僅か一年半の後であった。

 斉明天皇は事業を起こすことを好まれた天皇として有名であるが、『日本書紀』斉明天皇紀には、斉明天皇が非常に人目を引く建築(田身嶺に建てた「 ()(かど )()」、或は「(ふた )()(きの)(みや)」・「(あま )()(みや)」とも称された)を行ったり、土木工事(「(たぶ )()(ここ )()(のみ )()」)をしたことを記している。

 さて、周知のように斉明天皇は皇極天皇が重祚された天皇であるが、皇極天皇退位は六四五年であり、斉明天皇即位は六五五年で、この間に十年の孝徳天皇時代を挟んでいる。つまり壮年期と老年期の二度天皇位に就いているのであり、特に二度目は在位中に死を迎えることになったのであった。

 前述したように、書紀斉明紀には事業を起こすことを好む天皇と記されているが、同じ天皇でありながら、皇極紀には事業を起こしたことなど全く記されていないのはどうしたことなのだろうか。

 本質的に事業好きな性格ならば、皇極紀にもそうした何らかの記事があって然るべきであろう。しかし、そうしたことが全くないということは、事業好きであったことは斉明天皇時代に特有の何か原因があったと考えなければならないのではないだろうか。

 そこで斉明天皇の行なった事業の内容を検討したい。第一に、田身嶺(多武峯)に建てた「観」と言われる建物である。この建物は「(あま )()(みや)」「(ふた )()(きの)(みや)」と表記されていて神道的施設とも解することも出来るが、夙くに黒板勝美氏(10)が指摘されたように、道教との関係が注目され、岩波日本古典文学大系『日本書紀』の注記にあるように、道教の神々を祭る「道観」に近い建物と言う方が適切ではないかと思われる(11)。神道的祭祀の為の社殿ならば、そうした社殿は山を遥拝する形で、山の麓に造営されるのが一般的と云えるからである。

それに対して、道教ではそうした施設を「廟、宮、院、祠、観」などと称して仙郷とされる山々に営んでいたからである(12)。この内「宮」は、もともと天子の行宮や避暑地の別荘であったものが祭祀場となったり」とされるものであり、(ふた )()(きの)(みや)という行宮風の名称に適合しているように思われる。

 第二に、「狂心渠」であるが、近年の酒船石遺跡から発掘されている壮大な石垣や、特に給水施設と思われる亀石の石造物は、神道的というよりも、大陸的・道教的雰囲気を示しているように思われる。こうした施設を造る為の石を運ぶのに掘ったのが「狂心渠」と揶揄されたことは、心が狂った、つまり狂信的に行なわれた工事と考えられるのであり、為政者の心をそのように狂信的に突き動かすのは、宗教的信仰が最も可能性が高いと思われる。

 また、そうした信仰に基づいた工事が、為政者の狂心として人々に理解されたことは、それが人々にとって馴染みのある在来の信仰ではなく、馴染みの薄い外来の信仰であった為ではないかと思われる。

 では斉明天皇がそうまでして得たかったものは何かといえば、老境に差し掛かかっていた、その年齢に原因した何かではなかったかと思われる。つまり斉明天皇が求めたのは不老長寿であり、それを可能とするとされたのは当時では道教の仙術以外にはないからである。

 以上のように斉明天皇が最も恐れたのは、老衰であり、死ではなかったかと考えられる。斉明天皇は、この老衰を避ける為の方策として、多武峯に「観」を建て道教的神々を祭り、また酒船石遺跡の壮大な石造施設を造る為の石を運ぶ水路「狂心渠」を掘らせたのではないかと思われる。この石造施設が何であるのか、これまでのところ明確ではないが、そうした不老長寿を与える何らかの道教的祭祀施設ではなかったかと思われる。

 そしてもう一方の、死を避ける為に斉明天皇が行なったのが、死後の世界を司どる神である大国主大神の怒りを和らげ慰めることを目的とした「神之宮」の修厳ではないかと考えられる。

 大国主神が幽界を司る大神であることは、神話の語るところであろう。次には、そうした大国主神の神格を検討することにしたい。

    (4)斉明天皇と大国主命
  斉明天皇に大国主神への信仰と畏れを抱かせたのは、中大兄皇子と蘇我倉山田石川麻呂の娘の(おち )()(いら)(つめ)との間にできた孫の健王の存在と思われる。健王は八歳にして斉明四年五 月に薨去したのだが、斉明天皇の悲しみは尋常ではなく、自身の死後には健王を自墓へ合葬するよう命じた程であった。何故、斉明天皇が健王をそれほど愛しんだのか、その理由は健王が物を言うことが出来なかったことにあった為と思われる。

  其三曰 二健皇子 一。唖不  レ能  レ語。(『日本書紀』、天智天皇七年二月丙辰条)

  斉明天皇は健王のこうした能力的負荷を実に不憫に思い悲しまれたと同時に、言葉を言えるようになることを願ったと思われる。

 而して実際に唖から解放された皇子がいたのだった。垂仁天皇の皇子である本牟智和気皇子である。『古事記』には、本牟智和気皇子が唖であるのは、出雲大神の祟りのせいであり、垂仁天皇の夢に「我が宮を天皇の(みあ)(らか)(ごと )()(さめ)(つく)りたまはば、御子必ず()(こと)()()()」と出雲大神は語り、本牟智和気皇子が出雲に至って大神を拝んだ帰り、肥川の仮宮に居た時、皇子は言葉を話し始めたとされている。

 このような出雲大神の激しい祟りを伝える物語を『古事記』が採録していることは、そうした伝承が斉明天皇時代の大和朝廷の人々にも良く知られていたことを示していると考えられる。

 大国主大神が子供の物言う能力を司どる神として出雲の国でも信じられていたことを窺えるのは、『出雲国風土記』仁多郡三沢郷の記述からである。

 大穴持命(大国主大神)の子の阿遲須枳高日子命は壮年になっても言葉をしゃべることができないでいたが、大穴持命が夢に願ったところ、阿遲須枳高日子命は話す事ができるようになり、「三沢」という地名を云ったとされる。この三沢には出雲国造が朝廷へ神賀詞奏上に行く際、禊に用いる沢水が流れ出るところとして、次のような言い伝えが記される。

爾時、其沢水活出而、御身沐浴。故国造神吉事奏、参 二行朝廷 一時、其水活出而、用初也。依  レ此、今産婦、彼村稲不  レ食。若有 二食者 一、所 レ生子已不  レ云也。                

  出雲国造が神賀詞奏上に朝廷に行く際に禊に用いる神聖な沢水であるから、その水を用いて作った米を妊婦が食べると子供が唖になると云って食さないと云う伝承として解される。この伝承全体を論理的に辻つま良く説明はできないが、要するに子供の唖を神聖な沢水を得ることで解決したのが大穴持命(大国主神)であることになり、逆説的であるが大穴持命は子供の唖を治す神として信仰されていたことが窺われ、同時に大穴持命の怒りをかえば、子供を唖にして祟りをなす神として信仰されたのではないかと思われる。

  而して、朝廷に於いて健王を唖にしてまで大国主神が怒りを向ける存在といえば、父の中大兄皇子、或は祖母で天皇である斉明天皇以外にいないと思われる。

  天神と大国主神とは深遠な約束の上で国譲りが行なわれたことを、現代の我々は単に神話として捉えている。しかし古代に於いては、国譲り神話で取り交わされたことは、神代に於ける天神と大国主神との約束事であり、その事は天神の皇孫が履行しなければならないと考えられたのではないかと思われる。

 その約束事とは、『古事記』では、大国主神の住居を皇孫の殿舎と同じように宮柱を太く、高天原に千木が高く聳え立つように造ってくれたなら、この地に隠れるとの約束事であり、そうして出雲の多芸志の小浜に御舎が造られたとされている。

  また『日本書紀』では、大国主命の天日隅宮の柱を高く太く、板も広く厚くし、天穂日命をして大国主命の祭祀をさせると高皇産霊尊が大国主命に約束したところ、大国主命は「顕露」のことを治めるのは皇孫に譲り、自分は退いて「幽事」を治めると言ったと記されているのである。

大己貴神報曰、天神勅教、慇 二懃如此 一。敢不  レ従  レ命乎。吾所  レ治顕露事者、皇孫當  レ治。吾将退治 二幽事 一。(巻神代下〔第九段〕一書第二)

大国主命は、『古事記』では国譲りをして出雲の一地域に隠れ住むとして描かれるが、『日本書紀』では「顕露事」即ち現実世界を治めることは皇孫に譲り、自分は退いて「幽事」即ち死後世界を治める神となるとして描かれている。

  以上の考察によって、大和朝廷にとっての大国主大神の神格は、死後の世界を治める神であり、この神を怒らせると朝廷に対しては天皇の皇子を唖にすることで現世にその怒りを表す神であり、この神の怒を鎮める方策は、その社殿を天皇の殿舎ほどに柱を高く太く、板を厚くして、荘厳な社殿を造って、天穂日命の孫に懈怠なく祭祀を行なわせることによって果たされるとして畏怖された神、とすることができるのではないだろうか。

 こうした出雲国の大国主神の神格が、斉明天皇に至って、健王の死を通じて一際鮮明に想起されたのではないだろうか。老齢となっていた斉明天皇にとっては、健王の死を通じて大国主神の怒りが斉明天皇自身に向けられていて、その身代わりに健王が祟られ唖となったまま死んだと思い込ませたのではないだろうか。

  このように斉明天皇の近親者に大国主神の怒りを知らせる兆候が明確になったのに加えて、斉明天皇の治世面では、新羅が唐の援助を受けて百済侵攻を窺っており、これは当然大和朝廷にも波及する百済の危機であり、朝鮮半島の三韓とは海を隔てて対峙する最前線に鎮まる出雲国の大国主神が怒り大和朝廷に祟ることは、国内の安定に深刻な状況を作り出すことに直結する事態であることは誰の目にも明らかであったに違いない。

 したがって朝廷は何としても、出雲の大国主神の怒りを鎮めなければならない状況に立ち至っていたと思われる。

 では何故に大国主神が斉明天皇に怒っているのかと言えば、皇孫が大国主神と天神との約束を履行していない、つまり天皇の殿舎のような荘厳な宮を、大国主神を祭るために修造していないことにあるとするのが神話の教えるところであろう。したがって大国主神の怒りを鎮めるには、その壮大な神の宮を修厳することが最適の方策ということになるのではないだろうか。

 ところで、ここでこれまで触れないで来たが、「修厳神之宮」の読み方である。これを岩波古典文学大系では「(かみ)(みや)(つく )()(よそ)はしむ」と読んでいるが、むしろ国史体系本の古訓(釈日本紀)のように「 ()(ツカ )()(ノカ )()(ノミ )()(ツク)らしむ」と訓じるほうが適切に思われる。大国主神の宮は、神宮という和やかな建造物というよりも、恐れ多い神を祀るに相応しい荘厳な宮でなければならず、それ故「厳神之宮」という特別な宮でなければならなかったとされるのではないかと思われるからである。

 さて、上述した状況の下に、斉明天皇は大国主神の怒りを鎮める目的を以て、大国主神に天神が約束したような天皇の殿舎に勝とも劣らない「宮」を大国主神の為に修造することを思い立ったのではないだろうか。即ち「厳神之宮」の修造を、大国主神の祭祀を高天原の天神に命じられた天穂日命の孫である出雲国造に詔したとされるのではないだろうか。

  (5)厳神宮の修造と揖屋神社
  これまでの考察によって、斉明天皇五年に何故、朝廷が出雲国造に神宮の修造を命じたのか、その理由や背景が明確になってきたのではないかと思われる。そこで、当論文の最初の課題であった、なぜ狐が意宇郡の役丁の執る葛を噛い断ったり、狗が揖屋神社に死人の手臂を噛い置いたことを、斉明天皇の死の兆しとして日本書紀の編者は捉えたのか、そのことを最後に考察しておきたい。

 朝廷が神宮の修造に取りかかっていたにも拘らず、それに動員した意宇郡の役丁の執る葛に禍が加えられたのは、大国主神が修造に関して何らかの不満を示したものと思われる。

例えば修造を急がせる意味に解される。また狗が死人の手臂を噛い置いたのも、大国主神の苛立ちを示し、一刻も早く神宮を完成させなければ、大国主神の怒りが鎮まらないことを伝える大国主神からの意思表示と考えることが出来る。

 死人の手臂が置かれた所が、黄泉国に通じる黄泉比良坂があるとされた揖夜の揖夜神社であることは、黄泉国の大国主神からの意思が表される場所としては、寧ろ全くこの上なく相応しい場所であろう。

 そして狐と狗の両事件が意宇郡であることは、意宇郡には出雲国府が置かれることからも、意宇郡が出雲国に於ける大和朝廷の拠点となった郡で、他郡に抜きん出て大和朝廷には重要な郡であった為ではないかと思われる。意宇郡には、天神から豊葦原中津国平定を命じられて高天原から派遣された天穂日命の孫である出雲国造が、天神の熊野神を祭って居住していたことは象徴的でさえある。

 また岸俊男氏(13)が指摘されたように、仁徳天皇即位前紀に登場するこの郡名と同じ名前の淤宇宿祢が出雲臣の祖とされ、天皇に附属する倭屯田の管理をしていたとされることからも、意宇郡と大和朝廷には実に深い関係が見いだされる。

  出雲の国譲り神話を何らかの史実が反映した神話とし、この史実を宗教面から見るならば、大和朝廷から派遣された天穂日命がその平定に困窮し、そこに中央大和から直属軍が派遣され、ようやくにしてそれまで出雲国を作り治めていた大国主命一族を服属させ、大国主神の祭祀権を天皇に譲渡させ、天皇はその祭祀を大和朝廷派遣軍の先発隊として苦心した天穂日命に命じ、そうして天穂日命の孫である出雲国造が大国主命の祭祀を管掌することになったと解釈されるのではないだろうか。

 出雲が古代神話世界で大きな比重を持たされているのは、その平定が大和朝廷にとって非常に困難であった故に、その史実が国譲りを代表的する事例として象徴的に神話化された為ではないかと考えられる。そうした史実があったため、大和朝廷は、最も力強く抵抗した大国主神を出雲国でも最も奥まった地に押し込め、天皇の殿舎と同じような社殿を造って丁重に祭祀を行なって鎮めることが必要だったとされるのではないだろうか。

 斉明天皇は、健王が唖になり、百済が不安定なったことは、大国主神が怒っている為と感じ取り、その怒りの理由が社殿の壮大さの不足故と考えて、それまでよりは格段と柱も太く、高層で巨大な社殿の修造を出雲国造に命じたのではないかと思われる。

 このように大国主神をして黄泉国を治める神とする視点から、出雲国造・「神之宮」の修厳・意宇郡役丁の葛・揖夜神社の死人の腕・斉明天皇崩御の関連を考察するとき、大国主神が朝廷にその神思を表すには意宇郡こそが最も相応しい郡と云えることが明らかになるのである。

 それ故、井上光貞氏のように「言屋をキズキと関連せしめる理由は一つも存しないのである」ということは出来ず、寧ろ密接な関係を見出すことができるとされなければならい。したがって斉明天皇五年の神宮の修厳は、将に出雲郡の出雲大社であったとされなければならないと思われる。

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[注]
(1) 岡田莊司「古代出雲大社神殿の創建」(『神道文化』十二号、平成十二年十月一日)。

(2) 両説に対して研究者がとる立場は、注一岡田論文を参照。               
(3) 井上光貞「国造制の成立」(『井上光貞著作集』第四巻、一九八五年、岩波     書店。初出『史学雑誌』六〇−一一、一九五一年)。                    
(4) 上田正昭「山陰文化の伝統」(『古代の日本』4、角川書店、一九七〇年)。(5) 新野直吉「古代出雲の国造」(『出雲教学論攷』所収、出雲大社、昭和五十    二年)。
(6)『島根県史』一先史時代・神代、「黄泉比良坂」参照。
(7)『意宇郡(松江市・余郡)神社明細帳』(島根県立図書館所蔵)には、「昭和    二十一年六月二十三日法人届写」として揖夜神社の由緒の条に次のような記載 がある。「往古豫母都平坂ハ揖夜神社ヨリ六町去テ今地名平賀ト云又伊賦夜坂ハ 字神子谷ト云是也ト古老ノ口傳アリ」。また『八束郡誌』本篇(名著出版、昭和四十八年)第二章揖屋村第三節名所舊跡「一、伊賦夜坂」には「揖夜神社御由緒取調書」という記録を引用して、「按ずるに、再尊の諾尊を追ひつゝ、夜見國より渡り來ましゝ比良坂は、蓋し意東村の西の坂下ならん。然云う故は、此地は南方に聳立せる荻山、高野山の支脈の北に突出せる間に、揖夜・意東・出雲郷・岩坂・日吉等の村落を成せり。而して其支脈は南北に彎曲し東西に起伏したる丘陵 なり。故に海岸に近き部分は海抜百尺内外ならば坂路峻嶮ならず、概ね平易なれば則ち比良坂と呼び稱へたり。其比良坂を今平賀といへり。此地に小祠あり、平 坂と稱し、諾再二柱を祭る、此の祠は維新の神社取調書に漏れたるにより、官簿には無かるべきも、村民は厚く崇敬せり。即ち意東村と揖屋村との中間にして、 昔年よりの古路なり。今は縣道となりて益々平易なる坂なり。又一説に平賀の南に継ぎて又意東村より越え來る平坂あり、字夜見路越といひ、其の谷を夜見津といふ、云々。」
(8) 中村太一「『出雲国風土記』の方位・里程記載と古代道路」(『出雲古代史研究』第二号、一九九二)。
(9) 平成九年に、私も猪目洞窟を訪ねたが、その時の洞窟は高さ十二米、幅三十六米という巨大な洞窟であって、とても風土記に云う「高広各六尺許」の窟戸には比定できず疑問に思っていたのであるが、この疑問は加藤義成氏『修訂出雲国風土記参究』(昭和五十六年版、松江書店。初版昭和三十二年)の「宇賀郷」の次のような注釈を読んで氷解した。「昭和十五年の頃は、崖崩れの土砂で穴口は高さ一米弱幅二米ばかりの櫛形をなし、穴口から石を転がし入れると、共鳴しながら転入したが、その後土砂を取るようになって変形し、昭和二十三年漁港修築の際この穴口の土を取ったところ、縄文期から弥生時代・古墳時代に及ぶ考古資料と共に、人骨十数体、副葬品多数が発掘され、正しく黄泉の穴であることが分かった。穴口は今は崩されて高さ十二米、幅三六米の右を斜辺とした直角三角形で、奥へ次第に小さくなって三七米にも及ぶ漏斗状をなし、その先は鷺浦に続くといわれている。この穴から三三米の扇状の斜面が黄泉の坂に当たる。」。
(10)  黒板勝美「我が上代に於ける道家思想及び道教について」(『史林』第八巻一号、大正十二年)。
(11)  福永光司・千田稔・高橋徹著『日本の道教遺跡』(朝日新聞社、一九八七年参考。(12)  奈良行博著『道教聖地』(平河出版、一九九八年)、「1−道教聖地の山水と宮観」。
(13)  岸俊男「『額田部臣』と倭屯田」(『日本古代文物の研究』塙書房、一九八七年)。