研究編4 高杉晋作の葬儀         

高杉晋作の神葬祭
                                

   はじめに

  高杉晋作の神式葬儀を考える場合、近世に於ける長州藩の神葬祭はいつ頃、どのように始まったのかを考察しておく必要がある。小藩ではあるが隣藩の津和野藩では慶応三年(1863)藩主亀井茲監公が率先し、藩内すべてを神道葬に改めたほどの神葬祭運動の高まりを見せていたが、 長州藩では藩をあげて神葬祭に転化するといった動きはなかった。
 江戸時代では神道は京都の白川家と吉田家が全国の神職支配の行っていたのであるが、神葬祭は元々は神社神職の中で行われていた葬儀だったのである。つまり白川家や吉田家の裁許があれば、長州藩でも神社神職家の神職本人及び嫡子の神葬祭は行なうことが出来た。しかしながら徳川幕府の人民統治の重要政策である寺請制度によって、神式葬儀が武士や町人・ 農民にまで許されるものではなかった。
 しかしながら幕末の長州藩では、尊皇攘夷の志士や勤皇家の間には神道葬への強烈な志向が存在していたのである。その代表格が初代奇兵隊総督の高杉晋作と馬関の勤王の豪商として知られた白石正一郎である。そして重要であるのは、長州藩の最精鋭部隊として倒幕戦に重要な役割を果たし、奇兵隊という日本の近代的軍隊の先駆けとなった組織に於いて、戦死者が神式で葬られ祀られたという事実が存在している。

 幕末長州藩の尊皇攘夷の志士や勤皇家のこうした神道葬執行の史実があるにも拘らず、このことが従来ほとんど指摘されて来なかったのは、彼らの余りに華々しい政治活動とその成果に注目が集中した為に、彼らの近代日本宗教史に与えた重要な宗教面が見過ごされてしまった故ではないかと思える。しかし歴史の流れに則して云えば、幕末維新の長州藩を導いた彼らが、戦死者への神式の葬儀や祭祀を行なったことが、当時の長州藩に於ける招魂社(明治維新までに16社が創建)を創建させ、それは近代の靖国神社・招魂社・護国神社の創建へと展開したといえるのである。
 そこで今回は、高杉晋作の神葬祭に絞って考察を加えることとした。

   一、奇兵隊の神葬祭の始まり

  高杉晋作の葬儀が神式で行われるに至ったことには、それなりの経緯があったといえる。その経緯とは、文久三年五月に結成された奇兵隊との関係にある。奇兵隊奇兵隊士を神葬祭で葬ったのは奇兵隊結成の初期に始まる。その最初は結成5ヶ月後、奇兵隊の本陣が防府三田尻に置かれていた文久三年(一八六三)十月二十二日の木原亀之進からであった。木原亀之進は、十月十九 日に自害していた。
   十月十九日一、木原亀之進、楳田時蔵方ニおゐて夜五ツ時自害致候ニ付き、
          瀧惣管其外見届相済、大枝八郎治を以、萩表同姓茂左衛
          門方及報国候事、十月廿二日一、夕刻、木原亀之進遺骸埋葬ニ付、
                                 (『奇兵隊日記』(1))

 「神主を申請、神祭之式ニ致」たのであった。木原亀之進以外で、奇兵隊による神葬祭執行が明確なのは、明治元年十一月に死没した福田侠平(奇兵隊軍監)である。
  十一月十日 福田侠平北国より帰候由承、東一差遣候処、大病也、福田侠平死去、近藤政介
        神葬書付かりニ来ル福田葬式吉田ニて執行、東一差遣候
                               (『白石正一郎日記』(2))
 福田侠平は奇兵隊の幹部で、明治元年十月十六日に北越戦争から凱旋して下関で酒を飲み、卒倒してそのまま息を引き取り、高杉の墓(現在の下関市吉田の清水山東行庵)の隣に神式で埋葬された人である(3)。 隣に福田侠平が埋葬された初代奇兵隊総督の高杉晋作の葬儀が、神式で執り行われたことは良く知られている。
 しかしながら実際どのような神葬祭が行なわれたのかということになると、これまで神道側からの研究が全然行なわれていないという事情もあって、不明な点が多いと云わざるを得ないのである。

 また、戦死した隊士を直ちに桜山招魂場に招魂していたことは、慶応元年(1865)1月に諸隊(正論派)と藩政府軍(俗論派)の間で戦われた内紅戦で奇兵隊戦死者が出、その霊魂を祀ったと考えられる桜山招魂場に、奇兵隊幹部や隊士が同年4月19日以降相次いで参詣している。或いは慶応二年(1866)6月に始まった四境戦争小倉口の戦いで戦死した奇兵隊士7名の神霊を同年7月に桜山招魂場に祭る祭祀が奇兵隊が執り行っていることによって窺い知ることができる。

 その奇兵隊の初代総督が高杉晋作であり、高杉は小倉口の戦いにおいても決定的な指揮をとって、勝利に導いているのである。その高杉の遺骸は、本人の今際の際の遺言(葬儀の際に読まれた祝詞に記されている)によって奇兵隊の本陣が於かれていた厚狭吉田の清水山に埋葬されたのである。

   二、高杉晋作の葬儀
 高杉は慶応三年四月十三日に赤間関で病没するが、その遺骸は奇兵隊本陣が置か れていた吉田(赤間関からは二十キロメ−トル程離れている)に埋葬された。吉田清水山(現在、高杉の菩提を弔う東行庵が 営まれている)に高杉の遺体が埋葬された理由は、高杉の遺言(4)によるとも、高杉が死ぬ間際に「吉田…」とつぶやいたことから(5)とも伝えられている。

 高杉の葬儀を全面的に取り仕切ったのは幕末の志士を広 く援助したことで有名な下関の豪商白石正一郎である。勿論、白石正一郎は最初期からの奇兵隊士でもある。正一郎は、父白石資陽の葬儀を神式で行なった慶応三年三月二十八日(7)から二週間程して高杉晋作 の神葬祭を執り行うことになった。

 高杉晋作は四月十四日午前二時頃に死去する。
   四月十三日 今夜八ツ時分高杉死去の段、為知来片山と林へ行、
 そのことを片山貫一郎が知らせに来たので、正一郎は そのまま片山と連れだって林算九郎邸(高杉は、林家の離れで息を引き取った)へ出向き、帰宅して直に片山・山県・福田等と葬儀の段取りを相談したのだった。
   四月十四日 朝林よりかえる、高杉神祭一条、片山と申談示書付遣し候、昼前より山県狂介福
         田侠平来り、高杉神祭一条談示、一酌夜中ニ帰ル、山県近日上京ニ付、藤井良節          へ刀の事催促、手紙言伝ル、 今夜大庭一平長崎よりかへり来る。
  片山とは、白石正一郎が父資陽の葬儀の際に葬地の神祭を頼んだ奇兵隊教授方の片山貫一郎である。片山貫一郎は、白石家の分家で同じ赤間関竹崎で回船問屋を営む 白石良右衛門(正一郎とは従兄弟に 当たる)の姪を妻にしていた関係から、正一郎とは縁類関係にあった。
 白石正一郎は、片山貫一郎や山県狂介・福田侠平といった奇兵隊最高幹部と相談した上で、高杉の神葬を取り進めたのだった。 四月十五日には、高杉の葬祭用具が悉く白石正一郎邸に預かり置かれた。
  十五日 今日高杉の神祭用具、悉此方へ預置候
 十六日になると、白石邸に預かり置かれた神祭用具は吉田へ送られて、葬祭が 執り行われた。
  十六日 右神祭用の品、吉田へ送リ出ス、今朝片山ヘ萩行ニ付、金壱両餞別トして遣ス、
       清渡辺与三左エ門へ被立寄候様、渡辺へ先日の礼、反もの二反遣ス。
 高杉の葬儀についてはよく解らない点もあるが、葬儀次第等は『谷東行主神葬略式』によって知ることができる。

 当記録は白石正一郎の手になるものとして、これまでにも部分的ではあるが既刊書で紹介されている。冨成博著『高杉晋作』(6)(長周新聞社発行、一九七九年)三七四頁。 『白石正一郎日記』の四月十四日条には、「高杉神祭一条、片山と申談示書付遣し候」と記されているところから、『谷東行主神葬略式』は、この「書付」を基にしているのと考えられる。
 また、末尾に「死骸ヲ棺にをさめ候迄の義ハ、凡自葬式に有之候故略之」とあって、「自葬式」の語が用いられていることは、父資陽の葬儀を「水戸の自葬ニ習い」と記した白石正一郎自身が記した書付としてよい有力な根拠になると考えられ 、以下に『谷東行主神葬略式』(8)の全文を紹介する。(『谷東行主神葬略式』の解読・活字化には、本会副会長の広田暢久氏の全面的なご助力をいただいた。近世文書には 全くの素人である私には、当文書 の解読・活字化など独力では全く歯が立たないものであった。広田氏は所蔵先の長府博物館までご同道下さり、原本との校合までして下さった。この場を借りて、改めて謝意を申し上げたい。)

   丁卯四月十六日    谷東行主神葬略式
  一 忌の事  親の喪夫の喪は、妻子たる者ハ其日より酒肉をたち慎むべし、
          葬の時葬地にゆく道中徒跣の事、寒中たりとも足袋を用ふ
          べからず、すべて忌あ る人々は、皆すあしの事  
  一 棺  吉田迄の道中ハ病気の体、吉田着の上旅宿にて神祭の事但し、
       馬関を夜に入はやく出立、凡四ツ頃吉田着、直様其夜葬ふるべし  
  一 神祭用具の事 先ツ棺のうしろに屏風にても立廻シ、前の 方に机一脚
       長サ凡一尺居ヱオキ、此上に献供の三方ヲ五ツならぶる事、献供の品ハ
       ○御酒一対○野菜物○海草類○?菓子類 但し、時の木の実に干菓子ヲ
       取合セ可然か
  一 右の机の前に、又壱ツ小キ机を居ヱおきて、真中に神主(イハイ)・香炉・香合・
     両脇に花瓶二ツ、灯明二ツおくべし 但し、灯明ハ野辺に持ちゆき、風にきえ
     ぬやうに、かねてあんどんを用ひおくべし、花は榊を用ひ候事
  一 献供相済 親子兄弟ヲ始用夫迄、順々焼香すべし、但し、各手を柏ち拝し、
    丁寧に致すべし
  一 此時出たちとして、親子始其外へも一統に膳を居ヱ候事 但し、平皿汁とも
    手軽にして魚肉用ふべからず、勿論無酒の事
  一 右相済時刻見合せ、凡夜半頃葬送の事
  一 是ヨリ先キ、葬地にて土地の神を祭るべし但し、通例の清浄なる机か、又は
     八足にても用意し、○神酒○洗米○肴類供すべし、魚ハ干魚にてもよろし、
      是ハ死骸を埋メ土地を穢すゆゑに、其御断りを申す心得なり、勿論忌服
     なき者祝詞を白し祭るなり

      旅宿ヨリ葬地迄の行列
  一 大松明 二ツ 但し、棺の前凡五六間程おきて左右也
  一 箒持二人  但し、棺のまえ凡そ弐間程おきて同断
  一 棺      但し、棺舁四人各白木綿無紋のはつぴ着用
  一 机一脚   但し、先に旅宿にて用ひ候小き方、其侭持参の事、位牌、
            香炉、香合、花立、灯明等、其侭持行也
  一 三方  壱ツ 供膳用、但し、葬地ニて右の机の上へニ置べし○洗米
             ○塩○野菜の類、又ハ干物類ニても可然候、各かハらけの
             少し大き分に盛てよろし、五品程にて可然致か
  一 鎗・挟・箱・合羽・籠等、此処に行列すべし
  一 大松明 二ツ 但し、右道具持ヨリ凡三間程おきて左右
  一 親類其外惣供 但し、親・妻・子・血つゞきの者ハ、婦人たり共葬地迄ゆくべし
  一 壙の深サ凡六尺、葬地壙の前の方、手広く致し置べし、是ハ前以用意之事
  一 壙の前の方に、荒こも三四枚敷ならべ、其上に棺及供物の机などすゑ置、
     其まへの方のあらこものうへにて、祭主 祝詞をよミ祝詞をハりて親子・妻
     ・兄弟順々に焼香・拍手・拝礼の事
  一 焼香相済、棺をしづかに壙中におろし埋メ候事 但し、埋メをハりて又銘々
     焼香まへの如し 埋メをハり焼香相済、銘々帰宿の時、 一統一揖して静か
     にすべし、其時おもく忌のかゝる人を守護し、家に持ちかへり、机の上にすゑおき、
     存生の中の如毎日供膳、神酒・菓子・魚類、すべて何にても珍らしき物を奉るべし、
     五十日の間ハ昼夜灯明あかしおく也
     其後ハ、毎年春秋両度に祭奉仕すべし、勿論其月・其日にあたれる時ハ、
     子たるもの前日より酒肉を禁ずべし

     調もの荒まし覚
  一 棺 箱にして随分長く広く、木も相応に能木にて、板の厚一寸位出来立にすへし

     蓋釘付の事
  一 台輪 丈夫ニ造るべし
  一 棒  長く作るべし、凡四人舁 
  一 馬 二ツ 背高サ棺に応じ見合の事
  一 まんりき トウにて丈夫に調候事
  一 四方に七五三縄張候事
  一 机二脚、但し長サ六尺と四尺位高サ凡一丈 但し、四尺の方根を調ふべし、
    野辺にて雨ふりの時、香炉の火消え、又ハ供物香の
     類濡候故也
  一 香炉 一ツ
  一 香合 一ツ
  一 花立 二ツ
  一 灯明用 油器二組
  一 かハらけ 上五ツ、但し三方に盛ル程に洗米・塩其外用
  一 三方 六ツ 九寸程 但し五ツハ宅ニて用ふ、一ツハ葬地用
  一 あらこも三四枚
  一御神酒徳り 二ツ ○死骸ヲ棺にをさめ候迄の義ハ、凡自葬式に有之候故略之

 この次第書によれば高杉の葬祭は、白石資陽の葬祭と同じく深夜に行なわれたと思われる。暗くなるや早々と下関新地を出発し、四ツ(十時)頃吉田に到着する。その宿で祭祀を行なった後、夜半に墓所で再び祭祀を行なって遺体は埋葬された。その遺体埋葬に先立って、埋葬地の土地神へ埋葬断わりの祭祀も行なわれた。
 ここで白石正一郎が父資陽の葬儀の時に行なった水戸 の自葬式について述べておきたい。水戸の自葬とは、水戸光圀が「僧侶の勢力を弱め無用の出費を少なくするため士民に儒式による葬祭を勧めた」(9)とされ、神職については「光圀が領内の神職に対して、本人ならずその家族 に至るまで、僧侶によらず、神職自身による葬儀を行なうこと」に始まる葬法とされている。
 岡田荘司氏の研究によれば、その葬祭書は朱子の作とされた『文公家礼』に基づいて編纂され、寛文六年(一六六六)に家臣に 『喪祭儀略』が下された。それが更に調えられて『神道集成』第十二巻の葬祭書になったとされる。金井淳氏によれば、『神道集成』第十二巻の「葬禮式」は、
  全体を通じて儒葬を参考としながらも我が国独自の形を模索し、次第の中に取り入れようとする  努力の跡が伺える内容である
とされ、神式の祝詞奏上などの神道的要素も取り入れられた葬祭書であったことを指摘している。
 白石正一郎は、父の葬儀を「水戸の自葬ニ習い」と記し、高杉の葬 儀次第書である書付末尾にも「死骸ヲ棺にをさめ候迄の義ハ、凡自葬式に有之候故略之」として、「自葬」の語を使用していることからすれば、高杉の葬儀も水戸の自葬を手本としていたことは間違い無いと思われる。

  では、白石正一郎はどのような自葬の葬儀書を参考としたのだろうか。白石正一郎の書付と『神道集成』「葬祭」を比較すると、共通点は殆ど見られず、白石正一郎が参考にした葬儀書は『神道集成』ではないと思われる。
 近藤啓吾氏の研究(10)によれば、『神道集成』(11)に先だって纏められた『喪祭儀略』(12)には「入棺、土地神を祭る、埋葬、神主を書く」等の次第が記されているとされる。その『葬儀略』は、金井淳氏論文「徳川光圀の葬祭研究 とその現代的意義について」に、諸本を校訂した全文が紹介されている。そこで『喪祭儀略』と『谷東行主神葬略式』と比較すると、式次第は幾分異なるものの大筋の流れは相似ており、また儀式に用いる諸祭具や儀式内容 は極めて近似していることが知られる。 例えば、『喪祭儀略』では、墓所の土地神を祭った後、これに連続して埋葬・墓前祭を行なうとしているのに対して、『谷東行主神葬略式』では、前もって土地神を祭り、埋葬・墓 前祭は旅宿から直接赴いて行なうという次第であるが、納棺前後の棺前の設えは殆ど同じである。
   『喪祭儀略』
    其後、霊座とて尸骸の前に其人の常に着たる肩衣服にても卓子にのせ 其上に魂帛を置き
    又前に卓子を置き、上に香炉、香合、燭台を置き、酒、茶、菓子をそなゆ
   『谷東行主神葬略式』
    右机の前に、又壱ツ小キ机を居ヱおき、 真中に・香炉・香合・両脇にを花瓶二ツ、灯明二ツ
    おく べし。

 『喪祭儀略』にある「魂帛」とは、仮の依代のことで、人形に似ているとされ、最終的には墓穴に埋納されるものである。また、墓前での埋葬祭祀を終えてからの次第も、「神主(イハイ」を奉じて家に帰り、これを机に置いて酒・菓子などを毎日供える等の服喪期間中に於ける事柄も、ほぼ共通したものである。加えて焼香を行なうことも共通している。
  こうした点から、白石正一郎は『喪祭儀略』ないしはそれに近い系統の葬儀書に依りながら、これを幾分修正して高杉の葬祭を執行したものと考えられる。 明治元年十一月の福田侠平の葬儀の際には、「近藤政介神葬書付かりニ来ル」とあることからも、白石正一郎が執行した 葬儀及び奇兵隊が行なった葬祭は「水戸の自葬式」に基づいていたと云えるものであろう。

更に、『喪祭儀略』で興味深い点は、墓の前に立てる石碑についての記載である。
  石碑圖〔石碑、高さ四尺今尺にて二尺五寸五分、厚さ七寸九分今尺にて九寸一分、闊さ一尺一寸  今尺にて七寸六分、碑首は圭首とて四方よりそぎて中を高 くするなり、□高さ九寸半今尺にて六  寸、横二尺四寸四方今尺にて一尺五寸四方、碑面に、故某號某君墓と題し、その人の事跡、生卒  の年月日を傍に刻す、文長ければ、後にまはして刻すべし〕

この石碑図を立体的に描いてみると、、山口県の方であるならば、その形と同様な形の石碑をすぐに連想することが出来る。即ち、この碑形は山口県内にある招魂社(桜山神社等)に必ず附属している招魂碑の石碑と同じ形と思われる。特に碑首が四方から削いで中を高くした形で、角柱である点、台が一段である点は同じである。
 これまで、県内の招魂墓(石碑)の形が何に由来したものなのかよく解らなかったのであるが、『喪祭儀略』の墓前石碑 図によって、この葬儀次第書を範とした碑型であったと云えるのではないだろうか。したがって墓前石碑の形からも、白石正一郎や奇兵隊が用いた葬儀次第書は『喪祭儀略』であったことが強まると思われる。ちなみに、『神道集成』の石碑は 「石碑高二尺八寸、廣八寸、厚五寸、頂如笏首、」とあり、頭部が笏の形で、圭首形の『喪祭儀略』や招魂社にある墓碑とは明らかに違っている。

  さて、高杉晋作の葬儀に奏上された片山貫一郎作の祭文(13)が伝えられている。紙数の制約もあって全文を紹介できないが、重要な部分のみを紹介させていただく。 
  祭谷東行大人文
  此国殿人籏本仕 功績高谷潜蔵源東行大人棺前 真人梅之進主
  片山高岳 剣太刀柄押伏厳戈末傾 畏美母 汝為瞑之言 厚狭吉里
  遺骸葬奉礼止 遺言置給都留随意 今所葬奉良牟止志称白 言阿里(中略)
  和魂 殿近守神仕奉 荒御魂 御軍先鉾仕 四方仇 浪寄来奴輩
  科戸乃風八重雲吹放事  (以下略)
この祭文では、高杉の和魂(にぎみたま)荒魂(あらみたま)とに対して、和霊は藩主の側に仕え守護し、荒霊は軍の先鋒となって四方から押し寄せる敵を退かせよと祈請されている。実はこの荒魂(あらみたまの働きは、長門国一宮に祭られる住吉神の神格と全く同じである。即ち長門一宮の住吉神は、『延喜式』に「住吉坐荒御魂神社三座」と記されるように、住吉三神の荒魂を祭ったとされており、一方の和魂を祭ったのが摂津国一宮の住吉神社とされる。神功皇后の三韓征伐の際、住吉神は皇后に次の様に託宣したと『日本書紀』は記す。
     我和魂服王身而守壽命。荒魂先鉾而導師船(我和魂は王身に服ひて壽命を守り、荒魂は先     鉾となりて師船を導かん)
 この祭文を作った片山高岳は、身近な長門国一宮に鎮座する住吉神の神格の由来や意味を知っていた上で、こうした表現を当祭文 に用いたとされるのだろうか。

 祭文の中に荒魂・和魂の表現があることは、高杉の葬儀に参列した人々(奇兵隊関係者>も含めて)が、人の死後の神霊を和魂・荒魂の二魂とする神道的解釈を理解することが出来たことを推測させる。和魂が守るのは「殿」、即ち藩主とされていることは、如何にも近世の藩主と臣下の関係を象徴する表現と思われるが、人の神霊の働きに関した具体的な表現であり、寧ろこの祝詞から幕末志士達の、人の神霊への信仰を具体的に知ることができる。しかし高杉の死後の神霊を和魂・荒魂の二魂と考えたことが、長門国住吉神の神格から発想されたとは一慨に云えない。それは、これと同様な章句が、文久二年十二月の京都霊山の霊明舎に各藩の殉難志士を網羅して祭った時の、古川 躬行の祝詞(14)に見出されるからである。
  …請忠義諸君和魂荒魂 知不知無洩事無脱事 此祭庭天駆来会坐
  同志諸人酒飯山海多米津物捧而 歓仰状聞給 和魂 朝廷
  守幸 諸司百官忠誠国郡領主等邪穢心不令在 荒魂蠏行横浜在夷賊更也
  若軍艦寄来牟波討罰千里波濤逐沈(以下略)
 忠義諸霊の和魂には朝廷を守り、荒魂には夷賊を逐い沈めることが祈願されていることは、高杉の場合に於けるのと同一の思考と云えるものであろう。
 こうしたことからすると幕末の日本では、人の死後の神霊を和魂・荒魂の二魂とする思考が広 く行き渡っていたと考えられ、またそうした神霊観が古来からの伝統的神霊観を引き継いでいたことも云える。
 さて、白石正一郎の書付から、香と酒肉の禁止を取り、焼香の代わりに玉串を用い、位牌を霊璽とすれば、今日の神葬祭にほぼ近く、 また片山高岳の祭文が今日の神葬祭祝詞としても通用する祭文であると思われることは、幕末の長州藩に於ける神葬祭が如何に進んだものであったかを示している。而も、その葬祭が水戸の自葬を手本として、長州藩の奇兵隊関係者に行なわれて いたことは実に注目されることではないだろうか。
 奇兵隊と神道との結び付きは長州藩に於ける招魂社の創建、そして近代の靖国神社の創建へと進展するのであるが、そのことは拙論「幕末長州藩に於ける招魂社の発生」に詳しく論じたので、 ここは再論しないことにする。以上で当論文を終えたい。

[注]
 1 『奇兵隊日記』(マツノ書店刊、一九八三年)。
 2 『白石正一郎日記』(『白石家文書』所収、下関教育委員会編集・刊行、昭和四十三年)。
 3 一坂太郎著『高杉晋作秘話』、「福田侠平伝」(東行記念館刊、一九九九年発行)
 4 注14祭文。
 5 『高杉晋作と奇兵隊』「・終焉」(東行庵発行、平成六年)。
 6 冨成博著『高杉晋作』(長周新聞社発行、一九七九年)三七四頁。
 7 『白石正一郎日記』慶応三年三月二十八日条。
 8 『谷東行主神葬略式』(長府博物館所蔵)。
 9 岡田荘司「神道葬祭成立考」(『神道学』第百二十八号、昭和六十一年)十三頁。
10 近藤啓吾「水戸の葬礼」(「國學院雑誌」九〇−五、平成元年)岡田荘司氏前掲論文。
11 『神道集成』(『神道体系』首編一)近藤啓吾氏前掲論文。
12 金井淳「徳川光圀の葬祭研究とその現代的意義について」(『神社本庁教学研究所紀要』第二号  、平成九年)。
13 「祭谷東行大人文」(東行庵所蔵)、『東行庵だより』に全文掲載。
14 加藤隆久「招魂社の源流」(『神道史研究』第十五巻第五・六号、昭和四十二年。『現代神道研  究集成』第六巻所収、神社新報社刊、平成十二年)。