防府市護国神社

桑山招魂場碑桑山招魂場
 (防府市護国神社、桑山招魂場)
 防府市護国神社は、現在は立派な社殿が建てられています。旧称の桑山招魂場というのは、現在の社殿に向かって30メートルほど右側の山中にあります。右写真の真ん中奥に石造鳥居が見えますが、その左横に左写真の招魂場と彫られた石碑があります。
 この桑山招魂場は、慶応元年(一八六五)五月に御楯隊志等が調練の場として整地に着手し、同念九月に完工しました。明治三年(一八七〇)元整武隊志等が相計り招魂社を創建しました。御楯隊(みたてたい)といいますのは、幕末の長州藩には藩の武士の正規軍の他に、準正規軍として庶民を含んだ「有志」の隊が多数(161隊)組織されたのでした。その最初に結成された有志隊が「奇兵隊(きへいたい)」なのです。ですから奇兵隊(駐屯地=下関吉田)というのは、そうした諸隊の一つということなのです。有名な奇兵隊の他には、御楯隊(駐屯地=三田尻)・鴻城隊(駐屯地=山口)・遊撃隊(三田尻)・八幡隊(駐屯地=山口)などがあります。
 御楯隊と鴻城隊が合体して出来たのが、整武隊なのです。したがって、元整武隊が三田尻の桑山に招魂場を造った理由は、整武隊の前身隊であった御楯隊との関連があった故とされるものです。
 現在の防府市(周防府中の略称)とは、古代律令国家の国府が於かれた地であり、近世以来は三田尻と呼称されていました。平安時代に九州太宰府に左遷される菅原道真は、ここ(勝間の浦)に一時上陸したとされたことから、日本三大天神(太宰府天満宮・防府天満宮・北野天満宮)の防府天満宮が鎮祭されることにもなりました。
 江戸時代の毛利藩は、本城を日本海側の萩に置いていたことから、京都や江戸には、萩から萩往還を通って防府に出て、三田尻港からの船を使って瀬戸内海を行き来していたのであり、毛利藩の海軍局が置かれていました。また、禁門の変で、都落ちした七卿も三田尻招賢閣に一時滞在するなどしておりました。更にまた、元治元年(一八六四)に高杉晋作を福岡藩内の平野山荘に匿った野村望東尼(のむらもとに)も、黒田藩のお咎めで玄界灘姫島流され、高杉の手配で救出され下関に来関、そしてこの三田尻で終焉しました。このように三田尻は、幕末の長州藩にとっては最も重要な場所の一つです。
 長州藩に於ける招魂場造成の特徴として、諸隊が各隊別々に、その招魂場を造っているという特徴があります。例えば第一回目に紹介した山手招魂場は、慶応元年(1865)山口藩「集義隊」戦死者墓地なのです。