靖国神社の源流は、招魂社です


第十回  維新山招魂場・三蔭山招魂場

 
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三蔭山招魂場(みかげやましょうこんじょう)は萩市須佐に在り、現在は三蔭山神社と称しています。県内の招魂社二十二社は、多くが瀬戸内側に設けられていて、日本海側は、三蔭山神社と萩市護国神社、そして中山神社の三社だけです。

案内版 拝殿 
       三蔭神社案内板               三蔭神社拝殿                  
三蔭山神社は萩市須佐(旧阿武郡須佐町)に鎮座しています。山口県県文書館所蔵の『明治九年招魂場記録』には「一、地名ハ海蔵庵町三蔭山ト称ス
元浄土院山ト云フ建築ノ時改称ス」とあり、元々が浄地であったようです。
 「一、三畝拾八歩ノ地ヲ両段ト為シ、上段ノ中央ニ一社殿
表一間ヲ設ケ楠木正成朝臣ノ霊主ヲ安置ス、社号無之現今益田親祥時分ナリ」とあって、萩藩筆頭家老職であった益田親祥(ちかよし)(三十四代)の時、社地を二段にし、上段中央に社殿を建立し楠木正成を祭ったのだった。
 私が知る範囲では、山口県内招魂社で楠木正成を祭ったことが
確認できるのは、他に富田護国神社・麻郷神社があります。「一、社殿ノ左右ニ三拾二名ノ木碑ヲ羅列ス、碑名詳細別ニ記載ス」とあり、楠公を祭る社殿の両側に三十二柱(現在は三十七)の木の招魂碑が建てられたのでした。
 社地二段と社殿・招魂碑という当初の境内構成は、現在も全く変わっていない。但し招魂碑は、木製から石製に変わっている。尤も、招魂碑が木製だったことは、桜山神社も最初は木製だったのであり、木製碑であることの方が原初と思われる。建立は明治二年である。
「兼重厚平ノ発議ニ因り、同盟中協議シテ築造ノ世話ヲ為ス、落成ノ上神官松永勝宣ニ頼シテ祭典ヲ行フ」。更に「須佐招魂場人員録益田親祥ノ臣」とあって、当初の祭神は田村育蔵他益田家臣の人々であった。
 須佐歴史資料館から200mほど国道191号線を行くと、右手岡の上に社殿屋根が見えます。
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