桜山神


桜山神社正面 桜山招魂場(旧称 桜山招魂社)は、山口県で最初に創建された招魂社です。それ以上に、実は日本で最初に招魂社として建てられた招魂社なのです
 幕末の文久三年(一八六三)に、高杉東行(晋作)の発議により、「招魂場」を下関新地の岡の原に築くことになりました。翌年の元治元年(1864)五月十九日に招魂場は完成いたしました。そしてその翌年の慶応元年(1865)八月六日に社殿が落成したのでした。
 つまり、社殿に先立って招魂場は完成していたのです。こうした経緯から、「招魂場」と呼称されたのでした。靖国神社の前称が「東京招魂場」であり、それ以前は単に「招魂場」と称されていた経緯は、このような「桜山招魂場」の創開の経緯を知ることで、初めて理解されるものです。
 今日の桜山神社の祭神は、明治五年(1872)に県下各所の招魂場の神霊を合祀し、また同年には報国隊の神霊を合祀したことから、その本来の姿が見えにくくなっているのですが、本来は諸隊の一つである奇兵隊専属の招魂場だったのです。防府桑山招魂場が整武隊の招魂場であり、山手招魂場が集義隊の戦死者の為の招魂場であったのと同じことです。
 山県有朋は昭和三十四年に、吉田松陰没後100年祭にあたり合祀されているのですが、伊藤博文は桜山神社には合祀されていません。
 奇兵隊といっても、中核は要するに松下村塾塾生なのです。なぜなら、奇兵隊結成初期の幹部は、実は皆、松下村塾の塾生だからなのです。ですから吉田松陰が、神霊碑の最前列中央に据えられているのです。
吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞の神霊碑 神霊碑の真ん中は「松陰吉田先生神霊」とあり、向かって右側が「高杉晋作春風神霊」、向かって左側が「久坂義助道武神霊」と刻まれています。吉田松陰だけが台座が二段で、他の390の神霊碑は全て一段です。高杉の隣は入江九一(いりえくいち)、久坂の隣は吉田稔麿(よしだとしまろ)です、この四人が松下村塾四天王と称された人々で、久坂と高杉は双璧といわれた人です。
 高杉晋作は初代奇兵隊総督で、奇兵隊創設の立役者です。その後列に馬関戦争から戊辰戦役の奇兵隊志等の諸隊の神霊碑が列しています。
 それからすると、奇兵隊の精神的支柱が、正に吉田松陰ということになります。『白石正一郎日記』によれば、石柱は最初は木標とされています。このように招魂場ができた後に、そこに社殿が造られ「招魂社」と称されたのです。ここに招魂社が、最初は「招魂場」と称された本当の理由があります。
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