富田護国神社

 富田護国神社(とんだごこくじんじゃ)は、 栄源山の頂上から100m程降った場所に建っていますが、元は頂上に栄源山招魂場(えいげんざんしょうこんじょう)として明治2年(1869)に開設された官祭招魂社です。現在の富田護国神社の裏手には、招魂場→招魂社→護国神社と改称された県内他の招魂場と同じように33柱の招魂墓碑が建てられていますが、勿論この招魂墓碑は頂上から移設されたものです。富田護国神社の参道を更に下って行くと、この地域の産土神社である山崎八幡宮の境内にでます。
富田護国神社社殿裏手の招魂墓碑
      (富田護国神社)                   (本殿裏の招魂墓碑) 
最初に祭られた御祭神は、旧徳山藩の献功隊及び山崎隊でした。それ以降、日清・北清・日露・シベリヤ出兵・大東亜戦争に於ける戦死者が追祀されました。
 最初の境内地からは、日中戦争の勃発により軍事上必要な所として、呉鎮守府から海軍用地として譲渡を要請されての移転で、富田町は移転地の開墾に着手、町民3000人余の労力奉仕により約1000坪の敷地を得、社殿を造営し、昭和14年に護国神社と改称した。
《山崎隊について》
 山崎隊は慶応元年(1865)四月十四日、富田村屋庄屋・政所である岩崎庄左衛門を賄方とし「富田隊」という仮称で創設されました。翌十五日に隊名を「山崎隊」とし、徳山藩から小銃50挺、刀50腰が貸し渡された。仮称「富田隊」は創設地の地名を、「山崎隊」の名称は富田に鎮座する山崎八幡宮に因んだものです。陣営は、富田新町の浄真寺があてられました。山崎隊は、およそ50人で発足したが、やがて150人前後となり、慶応四年三月には80人増員され、230人となった。山崎隊の特徴は、士庶を問わない有志の者で結成された点にあります。
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