萩藩の重臣であった当地領主の堅田小輔、四境戦争(長州では、徳川幕府による「第二次長州征伐」が、長州藩の芸州口《安芸国》・大島口・小倉口《豊前国》・石州口《岩見国》)との四つの国境で幕府軍との戦闘が行われたために、これを「四境の役」と称する)、戊辰の役で八幡隊の総監に任ぜられたが、凱旋後の慶応四年(一八六八)に十四名の霊を祀ったのでした。その後、官祭招魂社となりました。 ![]() ![]() (1) (2) ![]() 上段には構造物があった様子がなく、したがって下段の拝殿だけで本殿はなかったのではないかと考えられます。 前回は、山口の招魂場は諸隊別に個々に開かれたといいましたが、諸隊が開いた招魂場とは別に、藩主や有力な家臣が戦死した家来の霊を祀る招魂墓を建てるために開かれた招魂場もあるのです。 (3) ![]()
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