靖国神社の源流

 現代日本で最も注目を集めている神社といえば、それは靖国神社です。では、なぜ靖国神社は、それほど注目を集めるのでしょうか。それは靖国神社が、明治以降から第二次世界大戦の敗戦までの日本国家の歴史が集約された象徴的存在の故だからです。
 近代日本国家の歴史の功罪の内、罪に関しての議論では、批判する立場の人々から常に引き合いに出されるのが、靖国神社と天皇と思われます。特に靖国神社は、対国家間における戦争での戦死者を祭っていることから、中華人民共和国や大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の人々からも、戦前までの近代日本の体制を美化する宗教施設とされ、攻撃の対象になっています。
 しかしながら靖国神社が、近代日本の精神的記念施設となっていることも確かで、我々が日本人であることを自覚して近代日本史を見るとき、靖国神社が国内外から批判されることに、ある不快を感じるのは、靖国神社のそうした存在による為のものと考えられます。
  靖国神社は、明治12年(1879)に突然出来た神社ではありません。それまでは、東京招魂社と称されていた神社で、明治天皇の思し召しによって明治二年(1869)に創建されたのでした。しかも草創期には、単に「招魂場」とも呼ばれていました。
 今、靖国神社→東京招魂社→招魂場と、何の解説もなく靖国神社の草創期の歴史を紹介しましたが、明治二年から十二年までの十年間の草創期に於ける、この呼称の変遷には、実に深い意味が宿っているのです。つまり結論からいうと、靖国神社創建の根底には、実は招魂社・招魂場の信仰というものが基になっているといえるのです。尚いえば、原点は招魂場だったのです。
 さて、「招魂社」は、社が付いているのですから神社のことですが、では「招魂場」とは何なのでしょうか。実態を知っている人は、ほとんどいないはずです。私は、山口県に在住しておりますので、山口県以外の招魂社を探訪することは、ほとんど出来ません。しかし実は、山口県は全国の官祭招魂社104社(『神社協会誌』では昭和7年における官祭招魂社は104社とされていています)の23%にあたる22社もの招魂社(山口県の招魂社数は21社と記述されている書物もあるのですが、これは昭和18年『神祇院調査表』に基づく社数と思われます。しかしながらこの調査表の昭和18年では、中山神社《旧称、勝野原招魂場》が昭和3年に県社に昇格している為、招魂社としてカウントされていないのです。したがって山口県の招魂社22社ということになります)存在している県なのです。山口県に次いで多いのが鹿児島県の17社ですが、この両県で、全の招魂社の38%、約4割を占めるのです。
 招魂社のこうした特定県への偏在の原因は、初期の招魂社が幕末から維新の戦乱や、明治の戊辰戦争の明治政府軍側の戦没者を祭る為に創建されたということに理由があります。そのため招魂社は薩摩・長州の両藩に偏って存在しているということなのです。
 「招魂場」は明治7年頃から、「招魂社」へと、その名称が変更されていくのですが、それは単に名称変更だけではなく、実態の変更を伴っていたということがいえます。
 この招魂社講座では、これから順次、山口県内22の招魂社の写真を全て紹介する予定です。ご期待下さい。

招魂社と護国神社の概説
   招魂社、或いは護国神社とは、明治初期から大東亜戦争までの近代の戦役・戦争の戦死者を祀っていることから、戦前では親兄弟といった身内が祀られている場合も多く、一般の人々にも招魂社や護国神社は身近な存在でした。したがって護国神社や招魂社に関した知識も豊富であったと考えられる。
 しかし戦後六十数年が経っている現代の我々は、そうした環境にいるわけではなく、招魂社や護国神社は身近な存在とは言えない。 そこで以下には招魂社及び護国神社の歴史の制度史的な概略を紹介しておきた。
 招魂社は、今日では慶応四年五月十日に布告された京都東山に癸丑以来の忠死者を祀る祀宇を設けるとの太政官布告と、伏見の戦い以降の戦死者の霊魂を祭祀する一社を建立するとの太政官布告の二つの布告が起点となって創建された神社とされている。 この太政官布告によって、京都や東京に招魂社が創建され、また諸藩に於いても京都東山の招魂祠に倣って自藩出身の戦死者を祀った招魂社を建立するようになったのだった。
 先ず、明治二年(一八六九)に、鳥羽・伏見の役から函館戦争までの諸戦役の戦死者三、五八八柱を祀った東京招魂社(創建当初は単に「招魂場」と称されていた)が創建されました。 この東京招魂社が、明治十二年(一八七九)には「國神社」と社号が改称されて、今日に至っている。
 中央における招魂社の整備は、こうして明治初期から進めらました。しかし各藩によって創建された招魂社や各戦役の戦死者を葬った墓地は、明治四年の廃藩置県によって藩による財政的保護を失ってしまったことから、その維持・運営に支障を来す状態となっていたのです。
 この地方における招魂社が荒廃していく状況が憂慮され、明治六に国内招魂社の状況が調査され、明治七年三月からは「在地の地租の免除、祭祀並びに修繕の官費支給」という、国家による保護・管理が行なわれるように法的整備(内務省達乙第二十二号)がなされたのでした。
 この省達に該当した招魂社は二十七社でした。因みに官費支給額は、祭祀料は一社につき年額十円、営繕料は二十五円、神饌料は祭神一座につき二十五銭でした。そして明治八年には社号を全て一般に「招魂社」とするようにとの内務省達乙第一三二号が出されたのでしらた。
 さらに明治二十三年には、各招魂社に受持神官を置いて、祭祀その他の一切の業務を取り扱わせるようにしたのでした(内務省訓令第八号)。
  招魂社は、明治七年以降も各地で創建されていったのですが、明治三十四年に至って、それまで官費支給されていた招魂社と官費支給の対象とならなかった招魂社を区別する為に、官費支給される招魂社には「官祭」の文字を冠することが定められました。
 これ以降は、称によって「官祭招魂社」(官費支給有り)と、「私祭招魂社」(官費支給無し)の区別がされるようになったのです。ここで注意しなければならない事は、「官祭招魂社」において、定額の神饌料が給付されるのは、明治七年三月の時点での官祭招魂社の祭神だけで、それ以後追祀された祭神には官祭招魂社であっても国からの支給はなく、遺族や縁故者の寄付等によってまかなわれていたという点です。したがって官祭招魂社に於いても、前者は官祭祭神と称せられ、後者は私祭祭神と称されたのでした。勿論、私祭招魂社では私祭祭神のみが祀られていたのでした。
 このように明治七年頃から整備が始まった招魂社制度は、明治三十年代に至って大枠がほぼ整備されまし。靖國神社では、日清戦争(明治二十七年〜二十八年)・日露戦争(明治三十七年〜三十八年)によって十万柱もの祭神が祀られたのですが、靖國神社は東京にあるため、遠隔地の地方に住む遺族や郷里の人々は容易に参拝に行けないといった理由から、この戦役以降には全国に多数の官祭・私祭の招魂社が創建され、その数は昭和七年には官祭招魂社が一〇四社、私祭招魂社が三四社で、合計一三八社となっていました。
 このように、近代の諸戦役に於ける郷土出身の戦死者を郷土に於いても祀りたいとして、市町村に於ける招魂社創建を希望する国民の希望は強まるばかりでしたが、政府としては靖國神社で全国の戦死者を一括して祀っていること、或いは招魂社の維持管理という費用的面から、招魂社の際限の無い増加には応じることは出来なかったのでした。
 そこで招魂社創建には、崇敬区域、或いは維持管理資金の確保といったことなど様々な面からの規制が加えられ増加に歯止めが掛けられるようになっていったのでした。そうした中、昭和九年ごろから招魂社の「一府県一社」制が考えられるようになりました。やがて昭和十四年四月からは、招魂社の創立については、師団管轄を異にする歩兵連隊の設置ある等の特殊な事情があってやむを得ない場合の他は、道府県に一社を限り許可することとし、市町村等を崇敬区域とするものは、独立招魂社であろうと、境内招魂社であろうと、創立は容易に許可されないことになりました(発社第三十号 内務省神社局長通牒)。
 更に同年四月一日から招魂社を護国神社と改称するとの内務省令第十二号が三月十五日で令達され、同日内務省発第五九号「招魂社制度ノ改善整備ニ関スル件」によって招魂社制度改革の内容が詳しく規定されたました。
 特に、明治二十七年の勅令二十二号に規定される府県社に関する取り扱いに相当する招魂社は、これを「指定護国神社」とし、指定護国神社に限り、その名称に府県名用いることが許されました。また、明治二十七年の勅命二十二号の村社に関する取り扱いに相当する招魂社は、「指定外護国神社」とされ、その社名に府県名を用いることはできないことになりました。
 こうして昭和十四年四月一日に、各道府県あたり一社を基準にして三十四社の「指定護国神社」が指定されることになりました(内務省告示第百四十二号)。但し、崇敬地域が広い北海道では北海道護国神社(旭川)、札幌護国神社(札幌)、函館護国神社(函館)の三社が指定護国神社となり、連隊区にかかわる特殊事情のある島根県には松江護国神社・浜田護国神社が指定護国神社となり(連隊区の関連では、岐阜県では指定護国神社であった濃尾護国神社に追加して岐阜護国神社も指定となり、兵庫県では指定護国神社の姫路護国神社に追加して神戸護国神社が指定となった)。また旧藩の創建になる広島県には、広島護国神社(芸州藩)・福山護国神社(福山藩)と各二社が指定護国神社に指定された。
 このようにして、大東亜戦争末期には指定護国神社は五十一社、指定外護国神社は八十三社にのぼりました。
 しかし終戦とともに、占領政策によって全国の護国神社は国の管理から切り離されることになりました。それに加えて占領軍が靖国神社や護国神社を国家神道とし、戦争を精神的に支え鼓舞したとの誤った認識が広がり、神社祭祀への公務員の参列が禁止されたことなどから、当然のごとく護国神社への人々の足は遠ざかった。
 そのため昭和二十一年以降には、護国神社では社名「護国神社」を一般神社の名称(例えば、 御霊(みたま)神社 のように改称することになったのでした(尤もサンサンフランシスコ講和条約が発効した昭和二十七年以降は、旧称の「護国神社」に復称した護国神社が多いが、旧称に復称しなかった護国神社もある)。
  この期間は、全国の護国神社は非常に困窮し、維持は困難を極めたのでした。しかし昭和二十七年以降になると各地の遺族会によって祭祀も復活し、財政的基盤も安定して、社殿・参集殿などの施設が整備されていきました。
今日では、護国神社は安定しているように見えますが、遺族の減少によって、維持・運営などに将来的な不安が生じており、特に指定外護国神社においてはこの状況がより深刻となっています。また指定護国神社においても、財政収入に余裕のある神社と、そうではない神社との二極化が進行しています。
 招魂社信仰とは、これまで招魂社信仰は、招魂社の祭神は忠死、或いは戦死した人であることから、これを人間が神として祀る信仰、即ち、「人を神に祀る信仰」形態に属する信仰とされてきた。 「人を神に祀る信仰」としては、古くから日本には応神天皇を八幡神として、或いは神功皇后を神社に祭る信仰があった。
 しかし平安時代になって、疫神を鎮める仏教の行事の御霊会の影響を受け、生前の恨みをいだいたまま死んだ人、或いは非業の死を遂げた人が、怨霊となって人々に祟るという信仰が非常に流行した。これが怨霊信仰(おんりょうしんこう)御霊信仰(ごりょうしんこう)といわれるもので、戦陣に没した人や非日常的な死に方などした人の霊魂を畏怖して祀る信仰が民間にも広まったのでした。
 こうした日本人の信仰史から、小林健三・照沼好文氏は、招魂社信仰を、
   招魂社の信仰は、従来の氏神系統の祭祀と著しい差異をもつ、むしろ御霊信仰の部類
  に属する信仰といって差し支え無いであろう。
            (小林健三・照沼好文著『招魂社成立史の研究』一〇二頁)
との理解をしています。しかしながら両氏は他方で、招魂社信仰は御霊信仰とは違った性格を持っていることを踏まえ、
  菅公が怨霊の神としていうよりも、文神として尊崇されたように、招魂社の祭神も
  また、怨霊神として信仰されたのではなく、護国の神として一般から尊崇された。
  これは、近世に起こった国家的な倫理観、思想を反映するものであったと言ってよ
  かろう。     (小林健三・照沼好文著『招魂社成立史の研究』一〇三頁)
としたのでした。そして護国の神の信仰がどのような信仰であるかを、
  皇統・国家の護持防衛のため、究極的な死をもって、自己の生命を捧げ尽くした人
  びとの至誠そのものを讃仰し、その極致に護国の神として崇拝したところに、招魂
  社の成立がある。  (小林健三・照沼好文著『招魂社成立史の研究』一〇三頁)
として、近代に起こった倫理的・道徳的な信仰と位置付けてもいます。こうした理解は、「護国神説」(或いは「英霊説」)といえるものでしょう。
 しかし怨霊が守護神となるには、怨霊が長い年月を掛けて和らいだ霊となってから成立する信仰であって、怨霊であり守護神であるとする信仰が同時に成立することはできないといわなければなりません。即ち、小林健三・照沼好両氏の理解は矛盾した招魂社信仰の理解となっているのです。
 「御霊信仰説」は、村上重良氏(『国家神道』1970年、『慰霊と招魂』1974年、両書とも岩波新書)、大江志乃夫氏(『国神社』1984年、岩波新書)などが立つ信仰説であり、これらの書籍が岩波新書ということもあって、一般に広く知られる招魂社信仰説となっている。
 特に村上氏の著作は靖国神社国家護持法案阻止を目的として著述されたことから、国神社に批判的な人々の信奉する国神社論の拠り所となっている。
 これに対して、「護国神説」や「英霊説」は、国神社に肯定的な立場の人々の論拠になっています。また阪本是丸氏は、近代の招魂社信仰を近世に起こった、地域の為に自ら進んで犠牲となった人々を祀り信仰する「義人信仰」から発展したとしています。
 私自身は、以前は招魂社信仰は義人信仰からの発展と考えてきたのですが、近年再考したところ、別の見解を持つようになっている。即ち、招魂社信仰は、近世に於いて整備された神道葬祭で発達した「死した人の霊を神霊」とする信仰が国学思想と結びつき、更にそうした国学思想が尊皇思想の拠り所となり、それが幕末長州藩の奇兵隊に流れ込み「隊士の戦死者の神霊を祀る信仰」が新たに発生した、この信仰信仰が招魂社創建の起点になった。この「隊士の戦死者の神霊を祀る」祭祀が継承され、やがて「国軍の戦死者の神霊を祀る」祭祀へと拡大されて、靖國神社・護国神社の創建となったと考えています。