第10回講座−神道祭祀に於ける斎戒−


項目
1、祭祀の制約 10、感染呪術 19、霊魂の無垢性 28、私の斎戒体験
2、斎戒 11、ひな祭りの本義 20、神道祭祀の心 29、斎戒により神の側に近づくことが許される
3、沐浴 12、禊ぎの原理 21、第一次思考の呪術思考 30、解斎の必要性
4、穢れの忌避 13、罪・穢れは流し遣る 22、感性に馴染んでいる呪術思考 31、斎戒の伝統
5、穢れとは何か? 14、神聖な産湯 23、呪術思考の合理性 32、持衰(じさい)
6、葬の穢れ 15、血は穢れの対象に非ず 24、社会人類学的知識の必要性 33、『魏志倭人伝』
7、遺体の穢れとは 16、血は神聖な生命力 25、斎戒の必要性 34新年の言寿(ことほぎ)
8、産穢 17、穢れの語源説 26、斎戒の非日常性 35、初詣の意味
9、穢れの呪術論的解釈 18、人のリセットは可能 27、時間感覚の変化 36、祭祀研究の心得

1、祭祀の制約
 祭祀には、様々な制約が設けられています。その制約は、祭る神への配慮から設けられたものです。
 ですから、それらの制約を知っていなければ、祭祀を理解しにくく、正確な祭祀の意味が解らないということにもなります。

2、斎戒
 そうした祭祀に於ける制約の一つとして、神道では祭祀を行なうにあたって、祭祀に参加する者達が身を清浄にする斎戒(さいかい)が行われます。
 斎戒をしない者は祭祀に参加できません。斎戒は、それほど神道の祭りの重要な部分を占めているのです。しかも古くは、斎戒の仕方如何で、祭祀の成就が左右されるほど、斎戒は重要であったのです。
 第九回講座で述べましたように、斎戒は祭祀に入るための通過儀礼と位置づけると理解しやすいのです。

3、沐浴
 現在一般的に行なわれているのは、沐浴(もくよく)や禊ぎです。斎戒(さいかい)を潔斎(けっさい)ともいいますが、潔斎は主として水を用いることになります。
 斎戒となると、食事の調理に用いる火を別火(べっか)にしたり、女性との接触をさけるなど、様々な禁忌があり、潔斎よりもう少し広い意味になります。

4、穢れの忌避
 斎戒では、先ず祭祀従事者と外部との接触を絶つことが行なわれます。
 また、祭祀従事者は穢れに触れないように致します。万一喪が掛かっている場合は、祭祀への参加を遠慮します。

5、穢れとは何か?
 では、何が穢れかというと、それが問題で、現在は明確な規定をすることができにくくなっています。
 「穢れ」という語には、現代的解釈が加えられてしまっていて、この語はとてもデリケートな語になっているのです。

6、葬の穢れ
 祭儀に直接的な穢れとしては、葬があります。しかし葬式や死体が何故穢れであるかということも、今日では問題視されるようになっているのです。
 浄土真宗が勧めている「清め塩」の廃止運動などがそうです。
 こうしたことから伝統的な穢れの説明を、現代社会は受け入れ難い状況にあります。したがって穢れは、現代では明確に規定しにくい状況になっているといえます。
 問題解決の方向としては、旧来の穢れの解釈を狭義の解釈とし、広義の解釈を再構築しなければならないと思われます。

7、遺体の穢れとは
 そうした現代的問題は別として、伝統的には死や死に伴う事柄が穢れとされてきました。
 例えば、血を流すといった事柄がそうです。即ち、多量の血を流すことは、死の危険を意味しますから、血は穢れとされました。

8、産穢
 お産も大量の出血を伴いますので、産穢とされていました。このあたりになると、医療の発達した現代人の感覚には少し合いません。
 穢れは、直接的で素朴な感情が、様々な社会事象や仏教の不殺生の戒律などとも結びついて日本社会社に広がった観念ですので、死以外にも様々な穢れが考えられるようになったといえます。

9、穢れの呪術論的解釈
 死を穢れとして忌む風習は、古典的になりますがフレーザーの呪術論(「金枝編」第一巻、岩波文庫)で説明すると納得の行く説明ができるかと思います。
 フレーザーによれば、呪術(マジック、まじない、呪い)は共感原理に基づく呪術とされます。共感呪術は、「類似は類似を生む、あるいは結果はその原因に似る」という原理に基づく類似呪術と、「かつてたがいに接触していたものは、物理的接触のやんだ後までも、なお空間を距てて相互作用を継続する」という原理に基づく感染呪術に大別されます。
 この分類からすれば、死に触れることを回避する風習は、感染呪術思考に基づいているといえます。 物に触れることで、触れた物に感染するという呪術思考です。
 つまり、生きている人が死体に触れる、或いは死体に近づくと、生きている人は死に感染すると考えられた為に、死体が忌避されたと思われます。

10、感染呪術
 しかし感染呪術を応用すれば、逆も可能なのです。神道には感染呪術的思考が応用された独特の呪術思考があるといえます。
 それは「感染させて移してしまう」という思考原理です。例えば、災いから逃れたければ、他のものに触れて、災いをそれに移せばいいのです。

11、ひな祭りの本義
 雛祭り行事は、娘の災を雛人形に移して、その雛人形を海や川に流すことが起源です。
 流し雛とは、そういうことなのです。

12、禊ぎの原理
 禊ぎ祓えも原理的には同じです。水に罪穢れを移して流し遣り、身(心)を清浄な状態に立ち返らせることなのです。
 感染を移してしまえば、感染源は感染から解き放たれるという思考原理です。
 こういう思考原理をもつ神道ですから、生まれながらにして組み込まれてしまっている罪といった原罪観は成立しません。神道に於いては、罪や穢れは洗い流せるものなのです。

13、罪・穢れは流し遣る
 神道では、人の心身は本来、罪や穢れの全くない無垢な心身であるとされています。
 人の心身は本来そうしたもので、生活していく中で、そうした心身に様々な罪穢れが付着してしまうと考えておりました。 「赤子のように」といえば、罪穢れの全くない状態をいいます。

14、神聖な産湯
 赤ちゃんは、母の胎内から血まみれの状態で生まれてくるのですが、産湯に浸かって洗い清められ、全く無垢な体となります(ですから産湯は神聖視されるのです)。
 そんな状態が本来の人の心身なのです。
血まみれで生まれてくる赤ちゃんは、血という罪穢れに包まれて生まれてくるようなものだから、お産は産穢とされたとした神道学者がいます。
 そのような解釈の方が、宗教的でドラスチックな解釈ですから、惹きつけられる解釈ですが、そうではありません。

15、血は穢れの対象に非ず
 神道では元来、血は穢れの対象ではなかったのです。それが不殺生の戒律を重んずる仏教の影響で、血を穢れとするようになったのです。
 そのため、大変な出血を伴うお産も産穢とするようになったのです。

16、血は神聖な生命力
  本来は、血は生命力で、それが大量に体外に出されるから、血が放出されることを穢れとしていただけだったのです。
 尤も多量の血を見るということが、日常で余り無い生活をしている者には、多量の血を見ることが気持ちいいものでないことは、古代人も現代人も変わらないと思われます。

17、穢れの語源説
 私には、穢れを「気(け)が枯れた」状態とする語源説は、やはり有力だと思えます。
 気とは「気力・水っ気」という言葉に象徴されるように、生命力のことをいいます。したがって気(け)が枯れた状態を穢れと言い表したとする語源説です。
 この語源説と感染呪術論を結びつけると、穢れを以下のように説明できます。即ち、「気(け)が枯れたに状態」に接触すると、触れた人も感染して「気(け)が枯れた」状になると考えらた為に、穢れを非常に恐れ、忌避するようになった」。
 このように説明すれば、穢れの解釈は納得できるように私には思えるのです

18、神道は、人のリセットは可能とする
 大人になって、罪・穢れがいっぱい身に付いてしまっても、その罪穢れを洗い流せば、罪穢れのない無垢な状態に立ち返られると神道では考えられていますし、それが基本的な神道信仰です。
 日本人は、「人間、死ねば仏」といいいますが、死んで仏に成るとの教えが仏教にあるわけでないのです(但し、日本天台宗の本覚思想の仏性論になると、万物に仏性が宿るという思考があったと思います)。
 仏教は、死んだぐらいで仏になれるほど甘くありません。これは神道的信仰が仏教的に言い換えられているだけなのです。

19、霊魂の無垢性
 身体に着せられた罪の重い鎧であっても、身体が滅びることで、罪の鎧は形骸となって残り、身体から抜け出る魂には罪穢れは付いていくことは出来ない。
 したがって清浄無垢な魂だけがあの世へと旅だって行く。 そのように日本人は考えていたのです。そうした神道の考え方が、仏教の衣を借りて語られているに過ぎないのです。

20、神道祭祀の心
 神道祭祀における祓えの諸儀式は、このような神道の基本信仰に基づいて行なわれる儀式なのです。
 実は、罪穢れとは、ある物に人間が付加した人間の感情ですから、物理的に実在する存在ではないのです。
 したがって当然に物理的な罪穢れの解消法も無いわけです。 そこで、禊ぎや斎戒などの感染呪術的方法で、罪穢れを祓い遣ろうとするのです。

21、第一次思考の呪術思考
 呪術思考は、人間にとって最もプリミティブで第一次的な思考の仕方ですから、現代人にとっても習慣的普通の考え方として溶け込んでいるのです。
 しかし理屈で合理的に考えれば、誤った思考であることは解るのですが、なかなか乗り越えにくい思考なのです。

22、感性に馴染んでいる呪術思考
 現代人も呪術的思考から抜け出せないのは、呪術的思考が我々の感覚に馴染んでいるという呪術思考の特性にも原因があると思われます。
 科学思考は事象に沿って起こる人間の感情を考慮しないからです。
 ここに現代でも、呪術思考を迷信として排除し、棄てることができない理由があるのではないかと思います。

23、呪術思考の合理性
 しかし呪術思考には、自然界の成り立ちに沿っている面もあるのです。
 特に感染呪術思考は近代疫学の解き明かした病原菌による感染症の原理に通じている思考方と思われるのです。
 感染呪術思考は、病原菌が介在するようなことには真理であると思えます。
 したがって感染呪術思考を呪術思考だからといって全て否定できないのです。

24、社会人類学的知識の必要性
 余談ですが、神道の祭祀の原理の分析には人類学、それも社会人類学的知識が非常に役立ちます。
 神道の説明には、こうした視点がもっと導入されてもいいと思われます。

25、斎戒の必要性
 祭祀は古代に始まったものですから、当然こうした感染呪術的思考を強くもっています。
 そこで、祭祀を犯す危険のある事柄が、祭祀を行なう者たちによって、祭祀の場に持ち込まれないようにする為に、祭祀の参加者に斎戒や潔斎が課せられたと考えられます。
 潔斎と同系統のものは、手水・水垢離・塩盛などです。 神道の重要な祭祀を行なう場合には、祭祀する神主には、潔斎が課せられています。
 潔斎した神主が、更に手水をし、お祓いを受けることによって、謂わば三重に清められて祭祀に従事するというのが現代の神道の祭祀です。
 但し普通の祭祀では、神主・参列者共に手水とお祓いだけの、謂わば二重の潔斎です。
 しかし古い祭祀になりますと、潔斎が何重にも設けられ、斎戒の種類も多くなり、しかも期間も長期になります。

26、斎戒の非日常性
 正確な意味での斎戒とは、日常生活を停止して、祭りに入る為の生活をいたいします。
 普通は、一晩だけですが、長期の場合ですと一週間、一月、三ヶ月、或いは一年、三年といった斎戒もありました。
 現代の神道では、そんなに長期の斎戒はとても不可能ですから、祭祀前日からの参籠(さんろう)という斎戒が普通です。
 参籠とは、要するに神社に泊り込んで神社境内から一切外に出ないことです。
 昔は、お籠りといって、祭りに参加する村人達も神社に参籠したりしておりました。
 神道では、何故それほどの厳格な斎戒が要求されたのかということは複雑な問題ですから、別の機会に講義したいと思います

27、時間感覚の変化
 現代のような忙しい時間を過ごさなくてもよかった近代以前では、時間というものに、人はストレスを感じずに過ごせたように想像されます。
 近代以前では、普通は、一年間ほとんど同じ場所で生活をして、隣の村にいくことさえなかったと考えられます。
 生活も実に単調な生活で、毎日同じ物を食べ、同じ物を着、同じ単純な労働をして、刺激のない生活をしていたでしょうから、刺激の坩堝の中で生きている現代人には、例え一週間の斎戒であっても、実にストレスを感じ、苦痛に感じられるものです。

28、私の斎戒体験
 私自身は一週間の斎戒を何度か経験しましたが実につらく感じたものです。
 神道の斎戒とは、原則的に何もしないということです。
 私が経験した斎戒では、具体的には頭髪を洗わない、髭を剃らない、爪を切らない、声高に話さない、音を立てない。刃物等の光る物を避ける。外光を室内に入れないで祭祀奉仕者のみでなるべく一緒にいる。
 したがってテレビ、ラジオは聞けないし、電話も掛けられません。
 外部の人と視線を合わせることを避け、話をしない。個人的な読書もできない(一日数時間の読書習慣を持っていた私には、これが一番堪えました)。
 室内に籠って、動くと物音を立てますから体操も控えます。こんな斎戒をしていると、本当に精力が日に日に減退していくのが実感されます。
 その代わりに、感覚が敏感になってきます。夜もだんだん眠れなくなります。それでも布団に籠って朝まで床を出ることはしません。
 女性を見ることも、話すこともなくなりますから。そうした感心も消えていき、性欲もどんどんなくなっていきます。
 とにかく、とても意気消沈したような感じになるのです。
 そうした生活をして、いざ最終日の祭祀の日になります。深夜から朝明けまでの六時間近くに及ぶ祭祀でしたが、誰も途中でへばることもなく、平然と長丁場の連続する祭祀をこなしていきます。
 そして全く粗相なく、祭祀が完了してまいます。
 この時になって、初めて長期の斎戒の意義が理解されるように思われました。
 長期の斎戒を通じて、集中力が高められ、心身が調えられて、祭祀奉仕者間の連携が強くなり、祭祀の完全執行に不足無いまでに祭祀従事者同志が高められていくのです・・・。

29、斎戒により神の側に近づくことが許される
 斎戒をして、神の側に近づいて、神に奉仕できるということは、大きな喜びと、満足を祭祀者に与えるもです。

30、解斎の必要性
 しかし厳重な斎戒は、心身ともに非常に疲れるものです。ですから、斎戒を解く時は、用心して日常に溶け込んでいきます。これを解斎(げさい)といいます。
 具体的には張り巡らした注連縄と杭を外していいく等します。
 それは聖から俗、非日常世界から日常世界へ回帰する為の通過儀礼でもあるのです。

31、斎戒の伝統
 今日の神道の祭祀は、厳格な斎戒を行なうことは少なくなりました。しかし祭祀には、本来そうした厳格な斎戒がともなっていたものなのです。

32、持衰(じさい)
 神道に於けるこうした斎戒の伝統が実は大変古くからの風習であったことは、女王卑弥呼の邪馬台国や倭国の様子を記した文献として有名な「魏志倭人伝」から知ることができます。
 「魏志倭人伝」には、古代日本人が中国へ来るために渡海する際に行なっていた「持衰(じさい)」という風習が記されています。

33、『魏志倭人伝』
 「その行来や渡海、中国にゆくには、いつも一人の男子に、頭をくしけずらず、 しらみがわいてもとらず、衣服は垢で汚れ、肉を食べず、婦人を近づけず、喪人のようにさせる。これを持衰と名付ける。もし、行く者が吉善であれば、生口(倭の留学生・捕魚者・捕虜・奴婢口・動物など)や財物をあたえるが、もし病気になり災難にあえば、これを殺そうとする。その持衰が不謹慎だったからというのである。」(「魏志倭人伝」、現代語訳、岩波文庫)
この様な風習は、正に斎戒に通じる習俗といえると思われます。

34新年の言寿(ことほぎ)
 さて、後数日で、新年を迎えます。晦日には大祓えをして半年の罪穢れを祓って新しい年を迎えます。
 歳神様が新しい年を運んで来て下さるのです。新しい年がやって来たから、これを祝って「明けましておめでとうございます」と言寿(ことほぎ、言葉で祝うこと)をするのです。

35、初詣の意味
 歳を送り、歳を迎える。こういったことも実は神道信仰に則った行事であり、大きな意味で祭祀ということも出来ます。
 新しい年を迎えられたお祭り騒ぎが初詣ということなのです。皆さん、来年も又、私と一緒に勉強してまいりましょう。では、良いお年をお迎え下さい。

36、祭祀研究の心得
 神道の祭りの分析には、祭祀の時系列の変化の分析だけではいけないのです。
 その祭祀の中の一つ一つの局面にどのような意味があるのか、その宗教的意味を汲み取る姿勢と情熱を持って研究することが必要です。
 神道の研究とは、人々の心の軌跡を分析することに外ならないからです・・・。

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