第13回講座−神仏習合−


項目
1、神道に於ける仏教の地位位置 8、物部氏滅亡の真実
2、神仏習合の終わり 9、政治抗争の宗教抗争へのすり替え
3、何故、神仏習合は続いたのか? 10、天皇の姿勢が左右した
4、神仏習合を成立させた仏教側の要因 11、昔からあった舶来信仰
5、仏の多身説 12、公的には神道、私的には仏教
6、神仏習合を成立させた神道の要因 13、神仏習合のモデル理論
7、崇仏は勝利という仏教の宣伝 14、辻の神仏習合論の破綻

1、神道に於ける仏教の地位位置
 神道にとって仏教というのは、優秀なライバルであると共に、ある意味で教師でもあったと思われます。
 神道が、この強力なライバルと対等になるには、実に千数百年の時を必要としたことは、全く驚嘆に値します。しかもその期間は、圧倒的に仏教が優勢であったのです。
 神仏習合は、八世紀の奈良時代始めからはじまり、実に十九世紀の明治時代に神仏分離令が出されるまでの、1100年間に亘って行なわれた日本の宗教文化現象であったと言うことが出来ます。

2、神仏習合の終わり
 しかしそうした宗教現象は、明治の神仏分離令によって完全に消えたのかといえば、そうではなかったのでした。穏やかな神仏習合状態は現在までも続いているということができます。
 もっともそれは、神道と仏教という教団レベルに於ける習合ということではなく、日本人の信仰状態としてまだ続いているという意味に於いてです。

3、何故、神仏習合は続いたのか?
 仏教が何故、そのように圧倒的に優勢でありながら神道を飲み込んでしまうことができなかったのか、或いは神道を圧し潰してしまうことができなかったのかということは、これまでも日本人の信仰の多重性や化寛容性、或いは信仰のいい加減さの故として説明されています。
 しかし、これでは情緒的な説明に流されていて十分な説明とはいえないように思われます。

4、神仏習合を成立させた仏教側の要因
 神仏習合には、大きく二つの原因が考えられます。一つは、仏教の側にあります。仏教がキリスト教やイスラム教のように他宗教に対して、攻撃的ではない非攻撃的な宗教であったことです。
 キリスト教やイスラム教が伝播した地中海地域や中東、西アジア、東南アジア、南北アメリカなどの地域では、現地の土俗宗教であったマニ教・ゾロアスター教、或いはインカの神々などは皆滅ぼされてしまいました。 しかし仏教が伝播したアジアでは、中国人の土俗習教である道教や、インドの土俗宗教であるヒンズー教などは滅ぼされずに残っています。
 寧ろ、一度は仏教に席巻されたものの、現在では逆にこれらの地域では仏教は殆ど勢力のない状態です。 そうした意味で、神道が出会った宗教が仏教であったことは、神道にとって実に幸運なことであったと思われます。
 仏教は、土俗の神道の神々を否定すのではなく、 神々を自身の諸仏の世界に取り込んで、仏の世界の一部に位置づけることで、神道と共生する方向を採ったのでした。
 

5、仏の多身説
 仏教では、仏の悟りに至る様々な段階や、前世、来世などによって、仏が様々な姿をとるという仏の多身説があり、また輪廻転生の考えもあったことが幸いし、そうした教説が神道の神々を仏の様々な化身として仏教に取り込んでしまいました。こうした教説は、神道の神々を仏教に同化させてしまうには、大変都合のいい教説であったといえます。

6、神仏習合を成立させた神道の要因
 もう一つの原因は、神道の側にあります。
神道が、仏教がどんどん日本に入ってきた時期には、神道のアイデンティティー(自身が自身であることの証明)を強固に確立していなかったということです。つまり神道は仏教を、自身とは異質で、対局するが故に排斥しなければならない、といった方向に駆り立てられなかったのでした。

7、崇仏は勝利という仏教の宣伝
 いや神道による仏教排斥は、物部氏(排仏派)と蘇我氏(崇仏派)との対立抗争としてあったではないかといわれる方もあるかと思います。
 排仏派は、仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に棄てたとされる事件は、聖徳太子らの崇仏派(蘇我馬子)によって排仏派(物部守屋)を討ち滅ぼされた史実として、学校の日本史でも教えられましたから、皆さんもよくご存じかと思いますが、この話には大きな疑問符が付くのです。
 実は、この話は、仏教側から語られた仏教に都合のいいように作り替えられた史実なのだと、今日ではいわれているのです。

8、物部氏滅亡の真実
 実際は、物部氏と蘇我氏が権力争いをして、物部氏が負けて滅ぼされてしまったという史実があるだけなのです。たまたま物部氏が伝統勢力として在来の神祇を重んじていたのに対して、蘇我氏が新興勢力で新来の仏の信仰に熱心であったということだったのです。
 しかし、新旧の勢力の政治抗争の史実が、崇仏派の排仏派への勝利という話として言い換えら、その部分が強調されて語られたのです。しかし、実際の史実は、物部氏(伝統勢力)と蘇我氏(新興勢力)の権力争いということなのです。

9、政治抗争の宗教抗争へのすり替え
 もし真に宗教対立であったならば、崇仏派の勝利の後には、神祇の否定や排斥の歴史が生まれなければならないはずなのですが、そうした歴史は全く伝えられていないのです。
 そうした歴史が起きなかったということは、つまりこの事件は神仏の宗教的対立ではなかったということなのです。仏教はこの政治抗争にかこつけて、これを神仏の宗教抗争の果てに仏教が勝利した史実(歴史的)として、日本布教の為にうまく利用したということなのです。

10、天皇の姿勢が左右した
 この事件で最も重要な点は、神祇祭祀の最高祭祀権を持つ天皇が、神祇を脅かす存在として仏教を考えていたなどということが、全く伝えられていない点です。
 天皇は、仏教の流入に全然危機感を持っていないのです。神道の最高祭祀者が、仏教を容認しているのですから、そもそも神仏の宗教的・政治的対立は成り立ちません。
 もし仮に天皇が排仏をとなえていたならば、仏教がこれほどの一大政治勢力として日本史に燦然と足跡を残すことはなかったと思われます。
 この天皇の姿勢が、仏教の受け容れに最も重要な要因であったことを示すいい例が、明治以降の仏教です。天皇が、その信仰姿勢を明確に神道に回帰させて以降、仏教は政治勢力として力を振るうことはなくなってしまっているのです。
 仏教にとっても幸運だったことは、仏教弾圧をする中国皇帝のような最高権力者が日本の天皇に一人もいなかったということではないかと思われます。
 中国では、外国の教えである仏教に十分対抗できる諸子百家のような思想が国内にあったため、外来の仏教だけが唯一の優れた教えではなかったのです。

11、昔からあった舶来信仰
 これに対して、日本にはそうした仏教に対抗する思想は国内にはなく、優れた教えは全て朝鮮・中国・インドといった国からの外来の思想であり、それらの教えを受け入れて国造りをしてきたという思いがあったのです。 ですから海外からの教えは、みな貴い教えであり、排斥する理由もなかったのです。仏は外国から来た神として大切にされたのでした。
 しかし一方で、恐らく仏教が渡来する数百年前から、天皇が治める日本は、神祇の力を戴いて統治するという政治原理が確立され、神祇の祭祀権は天皇が持つとの政治体制が確立されており、天皇の祖先神は天照大神であり国内統治者たる公の存在としての務めは国内諸神祇への祭祀であるという原則が出来上がっていたと考えられます。

12、公的には神道、私的には仏教
 したがって、天皇は個人の私的信仰としては仏教に帰依しても、歴代天皇の天皇としての務めは神祇の祭祀であり、これを棄てることはしなかったし、出来なかったのでした。
 そのため国内諸神祇は天皇を戴く国の政治体制において不可欠の信仰が向けられるべき存在として整備、護持されたのでした。
 ここに神仏が共存する空間が成立したといえます。つまり国土や天皇・国民の物理的保全を願う信仰は神祇信仰に、国家・天皇及び国民の精神的保全の信仰は仏教にという信仰の分業が成立したのでした。
 こうした基本的信仰構造を基に、神仏習合が展開したといえます。
 それにしても仏教が牙を持った宗教であったならば、必ず神祇排斥という事態が生まれたに違いありません。仏教に、そうした神道排斥の歴史がないということは、やはり神仏習合には、本質的に仏教の宗教的性質に負うところが非常に大きいということがいえるのではないでしょうか。

13、神仏習合のモデル理論
 神仏習合の歴史を、史実の検証に基づいて整理し、詳細に、そして体系的に跡付けたのは、辻善之助という、明治から昭和に活躍し、日本仏教史の大家となった学者でありました。
 辻善之助の神仏習合論は、その後ながらく、神仏習合論の定説とされてきましたから、一般の人たちにも、神仏習合を整理した辻の神仏習合史モデルというのはよく知られていると思われます。

14、辻の神仏習合論の破綻
 しかしながら、今日の神仏習合論からすると、辻の学説は過去のものとなっており、辻の神仏習合論は既に破綻した学説なのです。
 このことを、以前研究論文として纏めたことがありましたので、研究編に「辻善之助神仏習合論の全面的批判」として掲載ことにいたします。専門的研究ですが、みなさん挑戦されてみませんか。