神道の諸問題


1、現代神道の環境?
 現代の神道にとって最も大きな環境的変化の一つは、仏教・キリスト教・イスラム教、それから分派した宗派など、本質的に神観念が違う宗教諸派との共存といえましょう。
 そしてもう一つは、脱宗教化した社会が、普通の或は理想の社会であると考えるようになった日本社会の変化ということでありましょう。
 こうしたの社会観を支える思想が、「宗教とは、基本的に個人信仰に還元される」とする思想です。つまり「個人が集まって信仰集団を形成するのであって、その逆ではない」という考え方です。これを「信仰の自由」として保証する憲法や宗教法人法などの法体系があります。
 こうした現代日本社会の中で、宗教は寺・神社・教会・葬儀場・墓地といった特別な場所や施設にしか存在しない存在となってしまいました。つまり個々人の場で、公の場から宗教は追放されてしまっているのです。
 しかも個々人の場である家庭に於いても、仏壇、神棚は、日常の家庭生活では関係のない空間となっています。

2、近代神道の環境
 しかしながら、つい半世紀前(つまり戦前)までの日本社会では、毎朝、仏壇の前でお経を唱え、神棚には手を合わせるといった日常生活に組み込まれた宗教的時間を日本人は持っていたのです。これは基本的には、それより百年前の明治の初めと、それほどの変わってはいませんでした。
 近代にはあったこうした風景を、小泉八雲が詩情豊かに描写しています。
 小泉八雲は、明治23年4月に40歳で日本にやって来たのですが、8月には英語教師として松江中学に赴任し、松江には1年3ヶ月滞在しました。松江で最初に住んだのが、大橋川に掛かった松江大橋が間近に見える富田旅館で二ヶ月間滞在しました。
 その富田旅館から見た、橋と川岸の早朝の様子を描写した文は、生活に組み込まれた当時の日本人の宗教生活を実に良く描いており、私がこれまでに最も感動した文章の一つですので、紹介します。

小泉八雲−「神の首都・・・松江」−
 「庭先の川端から手を拍つ音が起こって来る。対岸の埠頭の石段を下りる男女が見える。銘々が帯に小さな青い手拭いを挟んでいて顔と手を洗い口を漱ぐ。是は神道の祈りを捧げる前に必ず行なう潔斎である。
 それから顔を朝日に向け四たび手を拍って拝む。白色の長い高い橋の上からも、他の柏手の音が反響の如くに出でてくる。あの異様な形の船の上から、手も足も裸の漁師が黄金色した東雲の空を拝んでいるのだ。 もはや柏手の音が増して殆ど鋭い音の連発となった。夫れは人々が皆 朝日−お日さま−天照大神を拝んでいるからだ。朝日に向かってだけ手を拍つ者もあるが、大概は西の出雲大社へ向かってもそうする。顔を東西南北へ次々に向けて群神の名を微唱するものさえ随分ある。天照大神を拝した後で一畑山の高峰を眺めて盲人の眼を開き給う薬師如来の大伽藍のある所に向かい仏教の様式に随って掌を合せながら軽く擦るものもある・・・・手を拍つ音がやんで1日の仕事が始まり出す。カラカラと下駄の音が段々高く響いてくる。大橋の上で下駄の鳴る音は、どうしても忘れられない。」

皆さんは、この小泉八雲の文章を読んで、どう思われますか?

3、明治生まれの祖母
 私が、この文章を読んで思い出したのは、もう四十年も前に亡くなった祖母の朝の姿でした。祖母は、朝早くお日様に向かって柏手を打っていました。祖母は確か明治35年ごろの生まれだったと、母に聞いたことがあります。しかも彼女は、北海道の生まれです。
 北海道のような新しい土地に生まれた人でも、天照大神に向かって、朝は柏手を打つという習慣を持っていたのです。
 私の母は、子供の頃、祖母が毎朝唱えるお経を、寝床のなかで、覚えてしまったと話していた。そして母は死ぬまで覚えていた。
 こうした宗教的時間を、つい半世紀前までの日本人は日常生活の中に持っていたのでした。
 しかし、今日、こんな時間を持っている日本人は、殆どいないだろう。日常生活の中から、宗教的時間が無くなってしまっているのが現代である。

4、日常から締め出されてしまった宗教
 現代人が持つ宗教的時間とは、殆どが非日常時間と思われます。そうした時間とは、例えば葬式です。或は各種の人生儀礼です。しかもそれを体験する場所は、神社や寺、或は葬祭場といった専用の特殊な場所なのです。
 こうした現代に対して、近世までの神道には、正月・お盆などに家庭の中で行なわれた神棚の設えなどの家庭祭祀があり、また村々で行なわれた村落祭祀、そして神社で行なわれた神社祭祀の三本が柱となっていたといえます。
 ところが現代神道では、この内の家庭祭祀が廃絶してしまいました。村落祭祀は地方では行なわれていますが、都会での共同体祭祀は廃絶してしまったといっていいでしょう。
 こうした変化を要約すると、現代の神道祭祀とは神社で行なわれる祭祀と、少なくなりましたが地域の共同体で行なわれる祭祀だけということになります。
 こうした家庭祭祀や村落祭祀の衰退に対して、神社に於ける祭祀は、近世以前の神道よりははるかに多く、そして盛んになっていると考えられます。
 つまり全体的に見ると、神道祭祀が家庭や地域から神社へと移ってしまったと考えられるのです。
 しかしこうした移行の中で、最も深刻なのは、村落祭祀が著しく衰退していることではないかといえます。
 なぜ最も深刻かといえば、村落祭祀の中に、神道の最も神道的な特徴があると思われるからです。例えば、お神楽なんかが、そうでしょう。
 現代の神楽は、芸能という以上に芸術といった世界に踏み込んでいます。神事芸能というよりもショーとして、なんとかホールのステージで行なわれるのです。
 こうしたことは、かつて陶芸が歩んで来た道を思い出させます。陶芸は、芸術になってしまいました。随って陶工は陶芸家、つまり芸術家になってしまっているといえます。上品過ぎて、近づけないです。
 神道も、人々の日常生活から切り離されてしまった先にあるのは、何か崇高な存在として祭り上げられて、高尚すぎて親しみのない、硬質な宗教となってしまうのではないかと私は、恐れています。
 神道を、日本人の日常生活の中に、どのようにしたら復活させることが出来るのか。実は、そのことが現代神道に課せられられている最も大きな課題ではないかと思われます。
 朝は、お日様に柏手を打ち、山に入る時は山に向かって柏手を打ち。そんな行動が現代人に始まったら、新しい神道の始まりではないかと、私は思うのですが・・・