第2回神道講座−神道の特徴−          

項目
1、神道は宗教とは 7、神道に教典は無い 13、正統と異端
2、神を戴いている 8、古事記・日本書紀は? 14、神道の寛容性
3、神道の世界範囲 9、日常生活に織り込まれた神道信仰 15、神道と天皇
4、自然崇拝 10、説教しない神主さん 16、ことば化されていない神道
5、神国信仰 11、教典の拘束力 17、日本語の中に溶け込んだ神道
6、人神信仰 12、神道の底力 18、神道の原初性

1、神道は宗教とは 

 今回が実際上は最初の講義ということになりますね。前回は序にあたるようなものでした。
 神道が、現在の我々が宗教といった場合にイメージする、神が主宰する宗教とは随分と違った宗教であることを強くいいましたが、やはり立派な宗教なのです。

2、神を戴いている

神道では全知全能の神がこの世を支配しているのでもなく、この世を主宰しているのでもないのです。神を戴いて、その力をもらっている世界といった方が適切です。

3、神道の世界範囲

   そもそもが神道は、現代のような地球規模での世界認識が可能であった時代に発生したのはなく、この世とは、海に囲まれた日本国のことだけと思っていた時代に発生したのでした。
 海の彼方は、あの世で、常世(とこよ)の国、或いは常夜の国と考えていた時代の世界観から出発したのでした。
 やがて海の彼方に他国が沢山存在するとことを徐々に知りつつ、展開してきた宗教なのです。
 ですから、今日の神道信仰の中には、神道が通過してきた各時代の世界観を基にして成立した信仰が多数存在していますし、神道はそうした信仰を抱えています。

4、自然崇拝

 例えば、自然界にある岩・木・泉、或いは穀物の米等には神霊が宿り、神そのものであるとする自然信仰は縄文・弥生・古墳時代から培われてきた信仰といえます。

5、神国信仰

  そして前回話題にした神国信仰は、鎌倉時代の元寇に際して、日本の暴風雨によって蒙古軍の軍船が博多湾で壊滅してしまったことから発生した信仰といえます。

6、人神信仰

 また、国のために身命を落とした人を、神として祀る信仰(今日の靖国信仰)が発生してきましたのは、近代日本が歩みを始めた幕末から明治維新にかけて発生してきた信仰なのです。

 戦国時代・江戸時代始めでは、豊臣秀吉とか徳川家康といった特別偉大な功績をあげた人だけが神として神社に(豊臣秀吉なら豊国神社、徳川家康なら東照宮)祀られたに過ぎないのでした。
  それが徐々に人が神として祭られるの資格が緩和されて、藩祖とか藩主、さらに義人(直訴を申し出た庄屋さんなど、直訴はそれ自体で死罪だったのです)が神として神社に祀られるようになり、幕末になって、やっと長州藩の準正規軍である奇兵隊の戦死者が祀られるようになったのです。
 そして明治になって、国民皆兵の兵隊の戦死者が祀られるようになりました。
 以上に紹介した三つの信仰は、皆現代の神道信仰に生きた信仰として包摂されています。
 現代の神道には、このような時代ゝゝの信仰がたくさん含まれているのです。

7、神道に教典は無い

  神道を理解する上で大事なことは、神道は信仰箇条が書かれた教典、例えば仏教ならお経、イスラム教ならがコーラン、キリスト教なら聖書、ユダヤ教ならトーラー、天理教なら「おふでさき」などでです。
 そういった教義を記した教典といわれるものを持っていない宗教なのです。

8、古事記・日本書紀は

 神道の教義が記された教典があるわけではないのですが、神道では古事記、日本書紀などを聖典視しています。けれども、古事記・日本書紀に教義が具体的に記されているわけではないのです。
 記されているのは、物語的・歴史的な記述がほとんどです。
 なにせ日本書紀などは、国の正史として編纂された、謂わば国家選定の歴史書なのです。
 確かにそれらの記述の一部に今日の神道の教義とされる部分もありますが、それは日常の信仰箇条を定めたとはいえません。
また、全国の大部分が所属する神社本庁が神道の教義として定めている教典もないのです。

9、日常生活に織り込まれた神道信仰

 神道は、日本人の生活の中にとけ込んでいる宗教なのです。ですから生活そのものが教典なのです。
 昔は日常の生活を逸脱する人も少なかったので、自然な日常生活をすること自体が神道の教えの実践だったため、日常生活を深く反省して、敢えて教義として定める必要もなかったのです。
 日常生活の実践が、即ち神道の生活そのものだったのです。
 しかし近代の日本人は、神道以外の様々な価値観に基づいて生活するようになった為に、今日では日常生活から神道を知ることは極めて難しくなっているといえます。

10、説教しない神主さん

 教典がないということは、神主さんに取っては大変なことなんです。
 立派なことと思ったことを真理として語っても、それは神主さん自身の経験や見識で判断していることで、「教典に、こう書いてあるから」と自己の見解を権威付けることもできないし、自己の見解が確かに真理であるとの保証は、自己の確信以外によるべき根拠がないのです。
 神主さんが、お坊さんや、神父さん(カソリック)、牧師さん(プロテスタント)のように、説教をするでもなく、真理を語ることもないのは、こんな所に理由があるのです。
 尤も、真理であるという根拠は、結局は、お経や聖書に書いてあるからという以上の根拠があるわけではないのです。


11、教典の拘束力

 しかし信者とは、教典に書いてあることを信じるということが信者であることの条件です。
 したがって、教典を疑うということはしません。
つまり宗教の強さは、懐疑を断ち切ったところから出発するのです。したがって教典の記述を疑うことができない仕組みになっているのです。
 デカルトの「考える故に、吾有り」ということは、いくら疑っても疑う吾がある。これは疑いようのない真理であるとして(ある意味で懐疑を止めたところ)から近代哲学が出発したように、教典も疑うことができない真理が書いてあると確信することから、信仰に入るのです。
 したがってどの宗教に於いても、、教典は疑えない真理が書かれているとされ、絶対的な権威を持つわけなのです。
 教典とは、それほど宗教にとっては重要なものなのです。
 現代物理学における相対性理論や量子力学理論以上のもので、数学に於ける定理のようなものなのです。

12、神道の底力

 そうした教義というものを神道は持ち合わせていないのです。
 しかし、それにも拘わらず他宗教との競争(例えば、仏教・道教・キリスト教との対峙)に生き残って、現在の日本に営々として繁栄しているのです。
 それが何故なのか、このことに明確な回答を出せた研究者は今日まで、まだ誰もおりません。

13、正統と異端

 もし誰かが神道の教義を説いたとして、教典とかあれば、その教義が正しいか否か判別することもできるのですが、それが出来ないのです。
 しかしその分、神道には良いことがありました。神道では、未だ異端とされた教えはないのです。
 つまり、教義の排斥という歴史がないのです。
 したがってキリスト教のような、異端と正統との激しい対立の歴史も生まれなかったのです。

14、神道の寛容性

 神道の寛容性というのは、神道のこういった生い立ちに、一つはあると思われます。
 そして神道に排斥の論理がないということが、神道が日本に滅びずに繁栄してきた理由の半分があると理論的には考えられます。
 しかし後半分の神道のアイデンティティが壊されない受容性は何によって裏打ちされ保証されているのか、その点が最大の謎として残ります。

15、神道と天皇

 天皇制というのは、一つの重要なキイワードとなるといえますが、戦後左翼思想の支配論理のイデオロギー論に引き込まれてしまっては、真実の姿が現れて来ないと思われます。
 天皇という存在が神道のアイデンティティにどのような役割を担っているのか、支配者という視点からではない冷静な分析がなされるならば、これまでとは全然別の位置付けがなされると思われます。

16、ことば化されていない神道

 ところで、神道は日常生活に溶け込んでいるのですが、このことは神道が意識して明確に言語化されていないというだけで、宗教として原始的であるということではないのです。
 例えば、我々が日常使っている日本語ですが、子供から大人まで使っている言語です。
 頭のいい人も、それほどでもない人でも、使用する上で不自由を感じることは有りません。
 考えなくても言葉は、出てきますし、人に伝達できます。つまり話せます。
 しかし、日常会話を可能にしている日本語は、音韻的に厳格で非常に複雑な規則性を踏んで話されているのです。
 日本語の文法構造なども、国語学的に分析すると、普通の人なら一生掛かっても理解することができないくらい複雑なのです。
 しかし我々は、平然とその言語を使っているのです。

  つまり、用いる人が、ある事柄を合理的に理解していなくても、その事柄を上手に使えるからといって、その事柄が単純で幼稚なものであるということにはならないのです。
 複雑な重量計算をされないで江戸時代に立てられた東大寺大仏殿が、地震にも倒れず、数百年建っていいるという現実があるのです。

17、日本語の中に溶け込んだ神道

 そこで敢えていえば、神道とは日本語の中に最も深く溶け込んでいるといえるのかも知れません。
 契沖・賀茂真淵・本居宣長・柳田国男・折口信夫などの神道の最高級の研究者が、和語(日本語)や方言論などの最高級の研究者であったこと。
 あるいは現代的に言えば研究者であると同時に詩人・歌人という日本語を操る言葉の芸術家でもあったことは、神道が日本語の中に組み込まれていることを深く暗示しているのではないかと思われるのです。

18、神道の原初性

 何度も申しますが、神道は、その教義が言語化されていないからといって、劣った宗教とはいえません。
 ただ、キリスト教や仏教などの他の宗教に比べて言語として教義化されていないという意味では、プリミティブ(原始的、原初的、深く思惟が加えられていない、初期の段階にある)なままで、近代を迎えた宗教であるといわれても、仕方がないかもしれません。



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