第七回講座−神道信仰のいろいろ−


項目
1、神道信仰 7、善にも悪にもなる宗教の両義性 13、神道信仰の実態とは?
2、神道説 8、伝統的宗教の安全性 14、信仰故えの掟
3、神道思想説 9、人に教わることの危険性 15、多神信仰
4、両部神道・土御門神道 10、神道研究のコツ 16、祭る信仰
5、修験道 11、論文とレポートは違う 17、茶道に見られる神道的世界
6、山伏 12、論文を発表の難しさ

1、神道信仰
  神道の勉強が少し進んできますと、神道の信仰として、八幡信仰・御霊信仰・天神信仰・熊野信仰・稲荷信仰・伊勢信仰などと共に、吉田神道・伊勢神道・復古神道といった神道があることを知ります。
 前者の場合の信仰は、該当する神と、其れを信仰した人々が実際に多数いたということで、神道信仰とすることができます。
 そうした信仰は「○○信仰」として、極端いいえば神の数だけ名付けることができる信仰といえます。

2、神道説
 これに対して後者の吉田神道・伊勢神道・復古神道といった神道信仰は、神とそれを信じた多数の人々といった意味での信仰とはいえません。
 これらの信仰は、諸家神道(しょかしんとう)といって、神道をいわば家業としていた家や神道の研究家がいいだした信仰で、神道信仰というよりは、神道説といえるものです。
 したがって多数の人々に信じられた信仰とは区別しなければならないと考えます。
 因みに「吉田神道」とは、江戸時代に全国の神社を采配する権限を幕府から許されていた吉田家の神道説、「伊勢神道」とは伊勢神宮の外宮(げくう)の神主であった度会氏の人々が唱えた神道説、「復古神道」とは本居宣長や平田篤胤といった江戸時代の国学者が唱えた神道説です
 このように「○○信仰」と「○○神道」は違うことを認識しておきましょう。

3、神道思想説
  神道説の世界に入り込みますと、非常に理念的信仰世界ですから、仏教やキリスト教でいう教理論的なものになってきます。
 私などは、思考がとてもついていかないので、専ら研究は前者の「○○信仰」に限定しています。
 諸家の神道説は、神道の特化された信仰になりますから、神道の本質的・本源的信仰を知りたいという人には、不向きな知識といえるかも知れません。
 これらの神道説は、信仰を思惟したものですから神道信仰の応用編、つまり神道思想と考えた方が良いかと思います。
 神道を信仰として研究したいという方々には、前者のテーマでの研究をお勧めしたいと思います。
 しかし、神道の思想的な面を知りたいと思われる方は、後者のテーマでの勉強をお勧めいたします。
 これまでの日本人が自己の神道信仰をどのように思惟して展開させたのか、その足跡を辿ることは、大変面白いと思います。
 但し、そうした思想家の著作は、膨大な量ですし、神道の神々の系譜なども縦横無尽に使われていますから、そうした事柄に耐えられる相応の知識を備える覚悟が必要です。

4、両部神道・土御門神道
 これらの神道信仰や神道説の他に、神道には、仏教や陰陽道との接点に生まれた信仰があります。密教との接点に生まれたのが両部神道(りょうぶしんとう)です。
 陰陽道との接点に生まれたのが土御門神道(つちみかどしんとう)といわれるものです。

5、修験道
 また、日本では山岳という場で神道と仏教が接触して生まれた修験道(しゅげんどう)というものがあります。
 修験道の研究はおもしろいです。北は、東北の出羽三山(月山・湯殿三・羽黒山)、関東では富士山、神奈川県の大山、中部の立山、北陸の白山、近畿では熊野三山、中国では大仙、四国では石鎚山、九州の彦山など、日本の名山とされるほとんどの山にその跡をたどることができます。

 

6、山伏
 山伏が、そうした山岳信仰の担い手でした。里人も、そうした山伏の験力、護摩の力を信じて、祈祷やいろいろな祭りなどしてもらっていたのでした。
 但し、山伏は仏教の正式な僧侶からすれば、格下の者でしたから、下位の者として扱われていたのでした。
 しかし、それ故人々とは親しく交わっていたのであり、今日でも地方の家々で行われる荒神祭などは、昔は山伏さんにしてもらっていたなどといったことが伝えられています。
 この修験道は明治五年に政府の政策で廃止されることになり、山伏は民間人に還俗させらてしまったため、山伏の活動は日本から消されてしまったのでした。
 今日では、細々と第二次世界大戦後に信教の自由のもとに復活した仏教各系の修験道教団の山伏がいる程度です。
 山伏は、山に伏して(だから山伏というのです)山の霊力を身に付けているから、験力(げんりき)が有るとされたのですが、いかがわしい山伏も数多くいたために、近代明治政府はそうした山伏の活動を認めなかったのでした。

7、善にも悪にもなる宗教の両義性
 宗教は、絶対善と考えてはいけないように思います。
 それを担う人々によって善にも悪にもなる性質のものだと考えなければなりません。
 どんなに初期は立派でも、金儲けに堕落していく宗教もたくさんあります。
 あるいは最初は情けないような宗教であったものが、どんどん立派になっていく宗教もあります。
 宗教は、山の稜線を歩んでいるようなもので、常に左右の谷に転げ落ちる可能性があるのです。神道も、またそうした宗教であることに変わりはないのです。

8、伝統的宗教の安全性 こうした宗教の両義性の可能性は、人々がしっかり認識しておくべきことなのですが、現在の日本人には、こうした宗教の危険性というものが全く知らされていません。
 新興宗教が危ういのは、この可能性が未だ試されていないからであり、伝統的宗教が安心なのは、なんどもそうした誘惑に耐えてきたという歴史の保証があるからなのです。

9、人に教わることの危険性
 さて今回の講座では、八幡信仰や両部神道などといった語を多数用いていますが、これらの語はWeb検索で調べることが出来ますから、余り神道について知識のない方は調べて、理解して下さい。
 自分で調べるということが非常に重要なことです。いや最も重要なことなのです。
 人から教えてもらえるということは一見便利なことのように思われますが、しかしそればかりだけでは良くないことなのです。
 自分で調べる力が付かないからです。研究は、自分で歩き回って、探し回って、やっと見つかるものです。
 私など、そんなテーマを見つけ出すのに12年もの間歩き回りました。

10、神道研究のコツ
 しかし見つけるだけでは研究は成り立ちません。それをどう料理したらよいのか、そこでまた指導してもらう先生の助けが必要になります。
 そのコツを先生から一度だけ教えてもらえれば、研究者として自立できます。
 そこが、なかなか難しいのです。そうした先生には、なかなか出会えないものなのです。
 大学では大学院に進めば、指導してくれる教授などに出会えますが、それにはお金も時間も必要です。

11、論文とレポートは違う
 また、研究論文を書くのは、レポートとは訳が違うのです。やはりセンスが必要です。
 センスがあるか無いかは、論文を読んでみれば解ります。後は、自分のセンスを信じて努力するだけです。

12、論文を発表の難しさ
 論文を作成しても、それを発表する場を獲得する必要があります。
 それが、また難しいのです。掲載が見送られた投稿論文が返却されてくることは辛いものです(私も経験しました)。

13、神道信仰の実態とは?
 さて、それでは神道でいう「○○信仰」とは、どのような実態をいうのでしょうか。
 例えば、稲荷信仰とは何なのかと・・・。端的にいえば、稲荷神が信仰されて稲荷神社に人がお参りしている。或いは稲荷神社が建立されたということなのです。
 稲荷信仰とは、商売繁盛に御利益があるから、お稲荷さんにお参りして祈祷してもらう、稲荷神社のお札を受けるとかということです。
 或いは家に稲荷神を祭る祠(ほこら)や神棚を設けること以外のものではないのです。
 稲荷の神を信仰するといっても、稲荷神が信者に要求する生活上の掟があるわけではありません。
これが熊野信仰であっても、伊勢信仰であっても、八幡信仰であっても同じでなのです。

14、信仰故えの掟
 但し希に掟が求められることがあります。
 島根県美保神社では事代主神(ことしろぬしのかみ)を祭神としてお祭りしているのですが、この神様は早朝の鶏の鳴き声で急がされ、足に怪我をしたということから、氏子は卵を食べてはいけないという掟あります。
 また八坂神社の神紋がキュウリの切り口に似ているいることから、信仰する人はキュウリを食べてはいけないということがあります。
 しかしこれらは、信仰の掟というほどではなく、禁忌という程度のものです。

15、多神信仰
 このように神道の神信仰ということは、神が定めた事柄を忠実に遵守するといった事柄の信仰ではないのです。
 神道では、特定の神を信じているから、他の神を信じてはいけないということもありません。 入信儀礼も脱会儀礼もありません。

16、祭る信仰
  神道の信仰とは、端的にいえば、「○○神」を祭る気持ちを持つか否かということだけなのです。神道に於いては、「祭」ることが最も大切で、それが神道の本質なのです。
 そこで問題となるのが「祭る」ということになります。「祭る」ということは、究極的には「大切に遇する行為」ということなのです。
  神を、どのように大切に遇するのかという、その仕方や、遇し方の差異によって様々な「祭り方」が編み出され、そうして祭がされるのです。

17、茶道に見られる神道的世界
 茶道に於いて、亭主が客をどのようにもてなすかという基準に基づいて、道具、手前、掛け軸などが選ばれ、茶会が組み立てられるのと同じなのです。
 私は少しだけ茶道に触れただけですが、茶道の世界はなんと神道的世界そのものなのかと驚いたものでした。
 茶道が発達したのは、仏教的世界の寺院ですし、今日でも茶道の最高階位の「乱(みだれ)」の相伝を受けるには、得度を受けなければならないとされているそうですし、掛け軸も大徳寺の僧侶の揮毫したものが重宝されるなど、仏教が茶の湯の精神なのですが、茶の湯世界の心の使い方が「祭る」という行為に、実に近いと私は思っています。

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