1、祭りの祭祀
神 道に於いて、最も本質的なこと、それは祭りといえます。もう少し専門的な語で云うと祭祀(さいし)といいます。
2、祈る宗教・祭る宗教
第一回の講義でも述べましたが、神道では他の宗教でいう「祈る」ということが祭祀に代替されています。
しかし祭祀は、それ以上に祈った事柄の実現を神に迫ることを目的としています。つまり祭祀は神を促すといえます。
3、祭祀の目的
したがって祭祀を何故行うのかと云えば、願いを神に伝え、神に実現してもらおうとするからです。
神道では単に神に願いをすることを祈願といいます。しかし祈願は、祭祀とは少し違います。
4、祭祀の対象
祭祀とは神に対して祭祀することで、神に満足を与え、それによって我々の願いを神に実現してもらうのです。
謂わば、神に願を実現してもらう対価として祭祀が行なわれるのです。
したがって対価を払うことなく、願いの実現を図ろうとする祈りや祈願とは違うといえるのです。
神道の神々は、人の働き掛け(祭祀)に応える神でもあるのです。
5、唯一絶対神
そういう点では、人からの対価に依って神の意志が左右されることはなく、全く神の意志だけによって神の意志は発動するという、キリスト教やイスラム教とは違います。
神の意志が、人からの働き掛けによって全く左右されないということなのですから、そのような神に対しては、人は祈ることしかなしえないことになります。それが絶対神なのです。
「絶対神」とは、字義通りにいえば、対抗する何者(他の神も)も絶えて無い神、ということになりましょう。正に唯一絶対神なのです。
キリスト教やイスラム教に祭祀ということがないように見えるのは、そうした神の神性に違いがあるからだといえましょう。
6、外国神・相対神
ところが、神道の神々は、他の神々の存在を認める神なのです。
仏は六世紀に伝来した当時は、神道からは蕃国神(=あたしくにのかみ、「蕃」とは外国という意味です)とか、外国神と記されていたのです。
十六世紀に伝来した当初は、キリスト教の神をも日本人は外国神と考えていたのでした。
神道の神々は、他の神々との間に自身を位置づけています。そういう意味では、相対神といえます。
また、絶対神でないために、我々から遠く隔絶した世界の神ではなく、割と身近に居られる神ということができます。
ですから、我々からの働き掛けが届くところに居られ、応じてくださる神ということになるのでしょう。
7、祭祀と祈願
今日の神社では、主に祭祀と祈願の二つが行なわれています。
祭祀は、祭りを行なって、神に悦んでいただくことです。
これに対して祈願は、神様に悦んでもらうこととは関係なく、神に願うだけの行為です。
神主さんが、祈願者の願いを神に取り次ぐのです。 祈願者は、神主さんに、自分の代わりに願いを神に伝えてもらっていると思っていますし、神主さんは、仲介者(神道の用語では仲執持=なかとりもち、といいます)として、祈願者の意図を誤り無く、神様に伝えようと一生懸命になります。
その神主さんの言葉を聞いて、神様が祈願者に働き掛けるのです。
8、祈りと祈願の違い
こういう意味では、願いをも持つ人が、直接、神に祈る「祈り」と、祈願とは違うということにもなります。
「祈り」に一番近いのは、参拝して手を合わせるという行為でしょう。
祈願は、神主さんが祝詞(のりと)をゆっくりと丁寧に朗誦するように一度読むだけで、繰り返し読むということはありません。
神主から神様に伝えてもらうこの祈りを、祈願(きがん)、祈祷(きとう)、或いは神楽(かぐら)ともいいます。
みなさんが、神社に行かれる時は、子供が生まれた時の初宮参り、新車を買ったときに行く交通安全の祈願、厄年の厄除け祈願などが殆どと思います。 但し、初詣などは、気軽な祈りということになりましょう・・・。
9、祈願は戦後の神社の姿
したがって、神社は祈願ばかりをしているように見えます。
皆さんは、それが神社の本質だと思って居られるかも知れませんね・・・。
しかし、それは大いに違うのです。神社では、祈願の外に、祭祀ということが日々行なわれているのです。
神社では、祈願ばかりが目立つようになっている今日の風景は、実は近代・近年のことなのです。
神社での祈願が盛んに行われるようになったのは、戦後のことといってさえいいのかも知れません。
10、伝統的神社の風景
では、戦前の神社では何をしていたのかといえば、もっぱら祭祀を行なっていたのでした。
それが、神社で古代から連綿と行なわれてきた伝統的な風景だったのです。
神社が建てられたのは、実は神社で祭祀を行うことが目的だったのです。
祭祀あっての神社という神社の本質は、今日も全く変わっていないのですが、一般の人には祈願者や参拝者で賑わう神社社頭の風景ばかりが、目につくようになっているというだけなのです。
11、祭祀施設としての神社諸施設
神社は、祭祀を行なうために建てられた建物なのです。 祭祀を行なうのは、何に対して行なうのか、それは神様に対して行ないます。
したがって、神が居られる建物として本殿(ほんでん)があります。その神様を人々が拝む場所が拝殿(はいでん)と呼ばれる建物です。
基本的には、神社は本殿と拝殿の二つの建物によって構成されます。
そこに、社務所・参集殿・神門(しんもん)・手水舎(てみずしゃ)などの様々な建物が附属するのです。
12、社殿祭祀と社殿外祭祀
ところで、ここから神道の祭祀は、大きく二つに分かれます。
つまり祭祀が、神社で行なわれる社殿祭祀と、神社以外の場所で行なわれる社殿外とに二分されます。
13、招神祭祀と常在神祭祀
神社以外の場所で祭祀を行なう場合、そこに神様はいないわけですから、当然その場所に神をお迎えするということになります。
そうした祭祀は、招神祭祀(学問的には神籬祭祀=ひもろぎさいし、といっています)とでもいえばいいかと思います。
また、神社のように神が常に居られる場所で行なう祭祀は、常在神祭祀とでもいったらいいでしょうか(祭祀の分類にはいろいろな仕方があるのですが、これは私の分類名ですから一般に承認された分類ではありません)。
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14、祭祀の多様性
この大きな二つの祭祀型が、祭祀の目的によって様々に変化させられるのです。
祭祀の仕方(順序)、これを式次第(しきしだい)といいますが、この二型を式次第でいうと次のようになります。
15、二種の祭式
第一類型の、神様が常駐する場合の祭祀は、本殿の扉の開閉がありますので、
開扉→献饌(けんせん=お供えを献ずる)→祝詞→玉串拝礼→撤饌(てっせん=お供えを下げる)→閉扉
となります。
第二類型の神を招く場合は、
降神→献饌(けんせん=お供えを献ずる)→祝詞→玉串拝礼→撤饌(てっせん=お供えを下げる)→昇神
となります。
第二類型の場合では、神様をお招きすることから、降神(こうしん=神を招く)、昇神(しょうしん=神に帰っていただく)という儀が加わりますが、本殿の扉の開閉がなくなりますので、開閉扉がなくなります。
祭りによって、この二つの型に様々な儀式や行事が挿入されます。
多くの場合、神事に深く関係する事柄、例えば舞・地鎮の儀などの諸儀は、祝詞と玉串拝礼の間に挿入されます。
そして、神事に深い関係を持たない電文披露や挨拶といったことは、閉扉或いは昇神の後に行なわれます。
御神酒を頂く直会(なおらい)や宴会は、祭祀とは別ですから更に後になります。
どんなに複雑な祭祀でも、この流れに沿って行なわれます。
さて、こうして神道の祭祀を紹介しているのですが、皆さんは外国人には理解出来ない日本人だけが持っている神観念の世界に、既に導かれていることをご存じでしょうか。
16、神道の神は何処へでも移動可能
神様を、どこにでもお招きすることができるということです。 恐らくこの説明を何の違和感もなく、皆さんは受け入れられていると思います。
しかしキリスト教やイスラム教、或いは仏教でもいいですが、他の宗教で、原理的には神様を何時・何処にでもお招きすることができる、といった宗教があるでしょうか。
アラーやゴットや仏を何処かの木や石に、自由にお招きできるといったことがあるでしょうか。
17、神道のアニミズム性
実は、神を神霊として、何時何処にでもお招きできるとする神観念を持っているのは、今日の先進国世界では日本の神道ぐらのものなのです。
現在ではなくなってしまいましたが、未開民族(二十世紀中期までは世界の辺境にはまだ存在していました)の宗教などには、このような神観念がありました。それをアニミズム(有霊信仰)といいます。
しかし神道は未開社会の宗教ではなく、世界でも有数な開き尽くされた科学の最先端国の一つである日本社会で信仰されている宗教なのです。
18、アニミズムは原始性か?
こうした神道のアニミズム性は、これまでは日本の未開部分の残滓として扱われたりしてきました。
宗教の発展段階説というものが十九世紀・二十世紀では盛んでした。
これはダーウィンの進化論の影響なのですが、社会学説としては資本主義社会から共産主義社会への必然的発展という論理に組み替えられました。
それが宗教の場合にも適用され、原始宗教→民族宗教→一神教へという宗教発展段階説となりました。
したがって最後の一神教が最も発展した姿であり、最高度の宗教であるという説明がなされてきたのでした。
19、社会進化論は西欧至高思想
こうした思想や学説に対して、これはキリスト教中心主義の西洋思想に過ぎないという見解が一般に知られるようになったのは、二十世紀半ばぐらいからでした。
私なども中学生の時にバラクラフの「西洋の没落」を読んで非常なショックを受けたことを覚えています。
20、宗教発展段階説は虚構の学説
実際は、原始宗教も民族宗教も一神教も、並列して進展してきたのであって、バトンタッチしながら発展して来たのではないのです。
そう考えないと、西欧キリスト教世界にあるオカルト性や魔女信仰や、サンタクロース、神秘主義、黒魔術といった原始的な神話や呪術宗教性を説明できないのです。
原始宗教も民族宗教も一神教も、当該社会でどの宗教がマジョリティー(多数派)であるかマイノリティー(少数派)であるかという違いに過ぎないといえるのです。
当該社会は、そのどれかの宗教色が色濃くでているだけで、社会の発展段階に応じた宗教が信仰されているわけではないのです。
21、イスラム教とキリスト教と仏教
かつて、あれほど仏教が盛んであったシルクロードの中央アジア諸国は、今ではイスラム教の国なのです。
これを発展段階説で、どのように説明するのでしょうか。仏教からイスラム教に進化したのでしょうか。
ならば、キリスト教も次の段階としてイスラム教になると、説明されるものなのでしょうか。
しかも発展段階理論に従えば、キリスト教もイスラム教も数千年後には、次の発展段階に移行し、より高等な宗教に代わることになるのです・・・。
嘗ては世界宗教とされる仏教の盛んであったインドが、現在は民族宗教のヒンズー教の国で、発展段階説に逆行している国ということになるのです。
22、宗教の発展は欺瞞
宗教は展開するのであって、発展するのではありません。
発展というのは一種の信仰であり、事実に沿う言い方ならば、展開というほうが正しいと思われます。
物理的な事柄には、確かに発展という表現が当てはまる場合がありますが、精神的事柄には価値判断が伴うため、発展という表現は当てはまらないと思われます。
したがって神道のいう、神霊は何処にでも移動が可能で、しかも分霊も自在という神観念に基づいて行なわれる祭祀を、原始的な神観念に基づく祭祀とすることは出来ないのです。
23、神道の歴史環境
日本では、こうした神霊観念が何故失われることなく、今日でも盛んなのかという疑問に対しては、結局、日本人は唯一絶対的な神観念を受け入れる必要がない歴史と環境の中で、生きてこられたという以外に、相対的神観念を持ち続けてきた理由を探し出せないように思われます。
この相対的神観念と神霊観に基づいて、神々への祭祀が行なわれ、祈願が続けらてきたのです。
24、現代アフリカの祈祷師
最近、サッカーのワールドカップで、アフリカの国などは、祈祷師が競技場にいて試合に関与したり、選手が呪いめいた動作をしてるのが、画面に一瞬流れますが、あれは彼らの今日の文化なのです。
原理的には、我々と違わないところにいるようで驚いています。本当は、それを奇異に感じる我々がおかしいのですね。
そうした文化を持った国々と共存していることを、今まで知らなかっただけだったのです。
外国といえば、東北アジアや中東・西欧の一部の国の文化しか知らなかったのです。
現代に在る以上、プリミティブ(原始的)でも何でもないのです。現代的なのです。
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