第6回講座―歴史と神社
 


項目
1、祭祀は神をもてなす 9、複合祭祀 17、清めの儀礼
2、祭祀と儀式の違い 10、特殊神事 18、祭祀の前後の通過儀礼
3、festivall(催し物)と祭りの
違い
11、祭祀研究の重要ポイント 19、神道「饗応祭祀」の重要度
4、流行の御輿の担ぎ方 12、通過儀礼 20「アヘノコト」
5、御輿くぐり 13、人生儀礼 21、「笑い講」
6、神は喜ぶか?不作法か? 14、空間の通過儀礼 22、祭祀の断片化
7、神への恐れ 15、加入儀礼・脱会儀礼 23、祭祀集団の閉鎖性
8、単体祭祀
16、神道祭祀の通過儀礼 24、祭祀の禁忌

1、祭祀は神をもてなす
 前回の祭祀の講義では、祭祀が招神型祭祀と常駐神型祭祀に二分されることを述べました。
 神道の祭祀は神への礼拝や祈りを目的とするのではなく、人々の願望の実現を図ってもらうように、神を促すことを目的とする働きかけです。
 それには、神が喜び、満足する必要があります。その為に祭祀を行うことによって、神を喜ばせ満足してもらわなければなりません。
 その報果として、神が人々の願いを実現してくれる。そうした信仰が基本にあって祭祀が執行されるということです

2、祭祀と儀式の違い
  祭祀と紛らわしいのが儀式です。神道でいう儀式とは、神への直接的働きかけの希薄な儀のことです。
 例えば「神前結婚式」などは神の前で行いますが、神を祭る事が主たる目的ではなく、神の前で結婚の諸儀式を行うことが主たる目的です。
 したがって、結婚祭ではなく結婚式なのです。
 また神社では、一年の6月30日と12月31日の半年毎に、人の罪を除去する大祓(おおはらえ)を行いますが、大祓も「大祓式」といって、「大祓祭」とはいいません。
 これは祓の神を祭ることを目的としているのではなく、祓えの儀式を行うことが主目的だからなのです。

3、festivall(催し物)と祭りの違い
 神道(神社)では、祭祀のことを単に祭(まつり)ともいいます。
 本来、祭りとは神を祭ることから、「祭り」といったのです。
 今日では「納涼夏祭り」・「植木祭り」・「陶器祭り」、或いは「文化祭」・「体育祭」等、「○○祭」と銘打った祭りが横行しています。
 しかしこういった祭りは、いわばfestival(催し、お祭り騒ぎ)ということであって、祭りの本義である神を祭ることを止めてしまったもので、祭りの崩れた姿なのです。
 祭りの本質である、神に対する祭りを祭祀といいますが、祭祀ではお祭り騒ぎといったことはなくなります。
 お祭り騒ぎは、本来は、祭祀が終わった後に、祭祀が終わったことを人々が喜び合い歓喜し狂躁することだったのです。

4、流行の御輿の担ぎ方
 お祭り騒ぎとは少し意味が違いますが、御輿が町々を回る御輿渡御は、本来は氏子の住む町内に神社から神を迎えることを喜んで、「わっしょい、わっしょい」と氏子が御輿を担いでいたのです。
 しかし昨今では、御輿を揺さぶって振り回す力を担ぎ手が誇示し、豪快さを競い合い、騒ぐばかりとなっている神輿渡御(みこしとぎょ)が多々あります。
 それがお祭りの賑やかしとされるようになってしまいました。これは神の存在をないがしろにしているから為せる技なのです。   
 これは神輿担ぎがスポーツのようになっていることをしめしています。よく考えれば、神様をそんな乱暴に扱うことなど出来ないはずなのです・・・。
 御輿の上に人が上がるなど本来は出来ることではないのです。勿論、神様を二階の窓や、神より高いところから見下ろすことも、ついこの間までは謹んでいたのです。 昔の人などは、そんなことをしたら罰があたると恐れていました。

5、御輿くぐり
 それで神輿くぐりといって、神様の下を通ることで、神の力を直接浴びようとする風習があるのです。

6、神は喜ぶか?不作法か?
 今日では、女性も御輿に上がって、しかも神様の真ん前に尻を向けて御輿の上に立っていることが、粋な女であるかのように周囲はもてはやしますが、それを目の当たりにして、私などは倒れそうになりました。それこそ「オー、マイゴット」でした・・。
 しかし祭りとは本来、そのような乱暴なものではありませんでした。まして神社で行う祭りの祭祀となると、そうした祭りとは天と地ほどの違いがあります。
 神道では、「祭祀」という語を使って、一般でいう「祭り」と区別しています。「祭祀」とは、宮中や神社の祭りのことです。
 したがって宮中や神社での祭りのことを「宮中祭祀」とか「神社祭祀」といいます。

7、神への恐れ
 祭祀において、最も恐れられることは、祭祀に不行き届きがあって神の不興を買うことです。
 神の不興を買う、あるいは神を怒らせることは、神の力を頂けないことになるからです。
 そのため、祭祀では神に対して失礼がないよう万全の注意が払われます。

8、単体祭祀
 祭祀は、通常は一つの祭祀ですが、大きくなると幾つもの祭祀が組み合わされて行なわれます。
 謂わば、単体の祭祀です。

9、複合祭祀
 しかし大きな祭祀になると、幾つもの祭祀や儀式が数日間に分けて行なわれます。謂わば、複合祭祀です。
 まるで演劇の第一幕から最終幕まで演じられるようなものです。
 一つの祭祀は大体30分から一時間ぐらいが普通です。長くても二時間です。
 数日にわたる祭祀は、大きな祭祀目的の為に幾つもの祭祀が組み合わされ、全体で一つの祭祀となっているのです。
 例えば神社の大祭などでは、例大祭・御~幸祭・神賑行事などの、いくつもの祭祀や行事が数日間にわたって組まれます。

10、特殊神事
 全国の神社には特殊神事といって、古くから受け継がれてきた祭祀がありますが、そうした祭祀には一週間に亘る祭祀さえあります。
 多くの場合、個々の祭祀は主体となる祭祀に収斂していくように組まれているのですが、古い祭祀になりますと、当該祭祀とは一見したところ直接関係しないような祭祀や行事が含まれている場合があります。
 しかし実は、そうした祭祀や儀式に主祭祀の意味が残されていて、主祭祀の方が本来の祭祀執行の目的から変化してしまっている場合もあるのです。
 こうした点は祭祀の意味や意義を分析する際には、非常に厄介な点となりますので、気を付けなければなりません。
 つまり、ある祭祀の本質を見極めようとする場合、その祭祀の中のどの祭祀が本体となる祭祀であるかを見定めることが非常に重要な眼目になります。
 この判断を誤ると、当該祭祀の意味を履き違えた解釈をすることになります。

11、祭祀研究の重要ポイント
 本体祭祀とは余り関係が無いと思われるような祭祀や儀式にこそ、当該祭祀の本義を知るための重要なヒントがまぎれていることがあるのです。

12、通過儀礼
 祭祀や祭りを理解する場合に重要な概念として、「通過儀礼」という概念があります。
 古典的著となっていますがA・.ファン・へネップに「通過儀礼」という著があります。
 この著作は、神道の祭祀を理解する上に、非常に有効な概念ですから、是非読まれることをお勧めします。

13、人生儀礼
 普通、通過儀礼という場合、我々は人生儀礼を想定します。
 宮詣り、七五三詣り、成人式、結婚式、厄年、古稀や喜寿の年祝い、最後は葬式といったような・・・。
 人生を一つの始終のある道に見立て、その節目を通過する祭の儀礼を、普通は通過儀礼というのですが、通過儀礼の概念はもっと多様なものなのです。

14、空間の通過儀礼
 例えば、道路から家に入る際に家の門を通って、玄関を通って、家に入ります。 門を通過しようとする際に、名乗ったりチャイムを押して要件を告げます。
 これも実は通過儀礼なのです。そして玄関から家に入る時に靴を脱ぎます。
 これらは、空間の通過儀礼といえるものなのです。
もしこうした所作をしなければ、日本では非常識とされます。 つまりこうした一連の行為が日本社会に於ける人の家を訪ね、家に入る際の空間移動に伴う通過儀礼なのです。

15、加入儀礼・脱会儀礼

 或いは、飲み会に遅れていった時などに、駆けつけ三杯など強要されますが、これは先に飲んでいた者達の仲間に加入する為の加入儀礼なのです。
 ある集団から別の集団に入る時には、そうした加入儀礼や脱会儀礼をしなければなりません。
 そうした儀礼も通過儀礼として捉えられるものです。入学式・入社式・入門式や卒業式・送別会・葬式も通過儀礼の一つといえます。
 神道の祭祀には、そうした通過儀礼が儀式として組み込まれています。
 神道をよく知らない人には、そうした儀式が、何故祭祀に組み込まれているのかよく解らないと思われます。
 祭祀の中で儀式がどのような役割を持っているのか、連続して行われますからなかなか解らないのです。


16、神道祭祀の通過儀礼

 祭祀では、最初に神主さんに大麻(おおぬさ)で祓われますが、これは祭祀に参加できるような清浄な体に清められるということで、その祓えを受けることで、やっと祭祀が行われる場に入る資格を得るということなのです。 これは俗界から聖界な場所に入るための通過儀礼ということです。
 神社の鳥居を潜って手水舎(てみずしゃ)で手と口を洗うのも同じことです。ですから口をすすいだ水は、吐き出さないといけないのです。
 飲んでしまうと俗界で口の中に付いた不浄の塵を体内に飲み込んでしまうことになってしまいますから、口をすすいだ意味がなくなってしまいます。

17、清めの儀礼
 手を洗うのは、具体的な汚れを落とすのではなく、きれいな手を清めることなのです。
 物理的な手・口の汚れは、神社に来る前に落としてくるのが常識です。

18、祭祀の前後の通過儀礼
 神社での祭祀は、普通には、お祓いに始まり、御神酒の拝戴で終わります。
 神社以外でも同じです。しかし厳密にいうと、祭祀は身を清めることから始まり、直会(なおらい)という饗応に終わるのです。
 饗応とは、本来は祭祀で祭った神と共に参会者が会食することだったのです。
 神が食し、人々もそれを食することで、神と共になることだったので、饗応は非常に大事な祭祀の部分なのです。
 神社では直会(なおらい)が、祭祀の中の儀式として行なわれることもあります。

19、神道「饗応祭祀」の重要度
 新天皇になられた天皇が、一度だけ天照大神にその年にできた新穀を供膳し、自身も食される大嘗祭(だいじょうさい)では、新天皇が天照大神に饗応する儀が中心神事として執り行われるのです。
 饗応そのものが祭祀として行なわれていたことは、宮中ばかりではなく、実は民間でも行なわれていました。

20「アヘノコト」
 有名なのは奥能登の「アヘノコト」などがそうです。これなどは、神への饗応そのものが神事となっています。
こうしたことから神道の祭祀に於いては、神との食の饗応にこそ、その本義があるのではないかとされるものなのです。
 神道の祭祀において最も本質的祭祀は、神を迎えて食事を饗することであったことは確信的なことなのです。

21、「笑い講」

 山口県防府市小俣に伝えられる「笑い講」は、奇祭として地元のマスコミが毎年とりあげる年末行事です。
 この行事では講員同士が大笑いを競い合うことから、その部分だけが報道され、大笑いばかりが有名になってしまっていますが、本質は笑うという予祝儀礼の行為をもって終わる講員による饗応と考えられる民間祭事なのです。
 「笑い講」の講員資格が「○○名(みょう)」という家に限られることからすれば、中世村落の有力な里長(さとおさ)達が大歳神を迎えて行なった饗応の収穫祭、そして講員同志の笑い較べによる翌年の予祝儀礼が、今日に伝えられたものと考えられるのです。

22、祭祀の断片化
 古い祭りや神事、民間行事には、このように、祭祀のある部分だけが残ってしまったものが多々あるのです。
 その部分のみが何故残っているのかということは、その部分にこそ、神事執行の本来の意味があった故と考えられます。 
 しかし前後にいろいろな事柄が付け加わったために祭事の統一性が失われ、今日では祭事の全体像が解らなくなっているのです。

23、祭祀集団の閉鎖性 
 祭祀や祭りを研究したり理解しようとする場合には、以上のような祭祀の仕組みを知っておかなければなりません。内部の人は、興味本位の部外者には伏せることも多いのです。

24、祭祀の禁忌
 祭祀には様々な決まりや禁忌があり、外部の人には、なかなかわかりにくいことが多々あります。
 それは神社以外の場所で行なわれる場合も同じなのです

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