御由緒

山口縣護國神社の起源は、日清戦争の後に、山口県出身の殉国の英霊を慰霊するため、明治36年に 防長靖献会が設立され、以後毎春、現在鎮座地の南に隣接する桜畠練兵場で盛大な招魂祭を斎行したことに始まります。

昭和14年、護国神社制度が整備され、県内一円を崇敬者区域とする護国神社(内務省指定 護国神社)を創建することとなり、社殿の造営に着手、昭和16年8月に現社殿が竣工しました。したがいまして、県名を冠した県護国神社は山口県では、「山口縣護國神社」一社しかありません。

山口県では、明治2年(1869年)に創建された東京招魂社(明治12年に靖国神社に改称)に先立つこと4年前の慶応元年(1865年)に藩命により創建された桜山招魂社を始めとして 、 以後明治元年までに16社もの招魂社が県内各地に創建されたのでした。その後も、県内には招魂社建立が相次ぎ、昭和20年までに22社の官祭招魂社が創建されました。 これらの招魂社は、合併された1社を除いて、すべて現在も社地が維持され祭祀が続けられています(注1)。

戦後は、殉職自衛官も合祀されました(45柱)。

(注1)招魂社や護国神社のことを詳しく知りたい方はこちらをクリック神道講座

御 祭 神

近代日本の国家建設の発端となったペリー提督率いた4隻のアメリカ艦隊の伊豆・下田への来航(嘉永6年、1853年)以降に起きた多くの国事・事変・戦争で、一身を国に捧げた山口県出身者52,128柱 の御霊(おみたま)をお祀りしています。(令和元年年現在)
 その90%は、昭和時代の満州事変・日華事変、大東亜戦争(戦後は「太平洋戦争」と称される)で戦没された兵士・兵員や軍属等ですが、その中には負傷した兵士の手当などに従事した看護婦、或いは日本国内の軍需工場で米軍の爆撃で犠牲となった学徒動員の生徒が含まれています。

 また、幕末に維新回転の業に殉じた幕末長州藩の志士達もお祀りされています。
〇吉田寅次郎命(松陰)〇久坂義助命(玄瑞)〇来島又兵衛命
〇大村益次郎命    〇高杉晋作命    〇月性命      

幕末の志士達が祀られている理由

維新も少し落ち着きはじめた明治十二年六月二十五日の第十一回合祀祭から、靖國神社では明治前後の殉難者・志士の合祀が始められました。その理由は、癸丑の黒船来航以来の殉難の志士達も国を愛し、世の不正を嘆き、天皇を頂いて国運を挽回しようとして、その志を遂げることができず、不運にも惨殺や牢獄で不当な仕打ちを受けて冤死した者たちで、鳥羽伏見の戦以来の戦死者が靖國神社に手厚く祭られているのとでは、余りに違いすぎるではないかという建言が出されたことなどから、鳥羽伏見以降の戦死者と同じように、癸丑(黒船来航)からの戦死者の霊を靖國神社に祭ることになり、第十一回から二十八回の合祀祭で靖國神社に合祀されのでした。

山口縣護國神社は、昭和十六年のご創建に先立ち、その祭るべきご祭神を調べるため靖國神社に参り靖國神社に祀られる山口県出身のご祭神を抽出したのでした。山口縣護國神社では、靖國神社でお祭りされている山口県出身の全祭神のご神霊を新に招魂する合祀祭が昭和十六年十一月二十六日に行われ、翌二十七日に鎮座祭が執り行われたました。そのため、上記の幕末の志士、明治の殉難者の神霊が山口縣護國神社に祀られているのです。

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