斎 館   社務所として昭和16 に建てられました。    
 参集殿   平成7年に山口県遺族会員の浄財を以て建てられました。       

 
母子像 平成7年4月に「山口県戦没者妻」により建てられました。 
 像制作 山本辰昭(遺児)     碑 文
残されし
形見の子等と
ともどもに
天空の父に 
とどけと
白鳩の
    舞う
 拓魂碑  建立 昭和49年11月
      『拓魂』
昭和十三年満蒙開拓青少年義勇軍の制度ができ満州の地に青少年を送った山口県で応募する者二千四百六十九名あらゆる困苦に耐え訓練を重ね 希望に燃えて開拓の鍬を振った昭和二十年八月終戦により開拓の夢はくだかれ苦難は言語に絶した異国に骨をうづめる者三百有余名茲に生還する者相図り碑を>建て往 時の気概をしめすと共亡き拓友の遺徳をしのび永遠の平和を祈る
少飛碑  建立 昭和48年11月 
 碑 文 『少飛』
昭和九年に誕生した陸軍少年飛行兵はその数五万有余に及び山口県よりも多くの少年が之に馳せ参じ至純な祖国愛に 燃えひたすら同胞の幸を祈り つつその多くは雄々しくも大空に散華した 日本の空に平和が訪れた今日苦楽を倶にした県在住の生存者相集い今は亡き友を偲び茲にささやかな「いしふみ」を建立する          
藤233連隊碑 建立 昭和53年5月14日
碑  文
『永遠不滅』
忠魂碑       建立年不詳
『忠魂碑』の文字が塗りつぶされています。終戦直後には、進駐軍に配慮してこうしたことが行われました。
 
 殉国烈士碑  建立 昭和32年11月。
山口県戦争裁判殉国烈士之碑奉賛会建立 
 『戦争裁判殉国烈士之碑由来記』(要約)。 昭和16年12月に起こった大東亜戦争は、日本が民族の興亡をアジア諸民族の独立自存の戦いでありましたが、昭和20年8月ついに無条件降伏に至りました。 この結果、連合国は戦争の責任を問うという名のもとに、戦争史上かつて例を見ない軍事裁判を行い、結果多くの方々が刑場の露と消えられました。この碑は、 こうした本県出身の殉国烈士33柱のみたまの永遠に鎮まりますことを祈って建立されたものです。
 放生池
古い境内図には仏教的ですが、この名称が記されています 

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